英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

お座敷がかかるということ

先週、2つ、経験のない仕事を「やってくんない?」と言われ、下記に引用した内田センのすすめを思い出してあんまり考えずに「いいよ」と言ったのでメモしておく。

普段自分がしているウェブ開発や翻訳でも紹介で仕事がつながることは多い。人手がほしいときにどこぞの馬の骨とも分からんのを一から見極める手間とリスクは誰でもなるべく避けたいのだ。当然である。

今回お座敷がかかったのは、どちらも5年以上付き合いのある人から。1人は仕事仲間である。
打診内容は、
1. 親族の家に数日間泊まり込みでペットたちの面倒をみてほしい。
2. 顧客のXXの書類を作ってほしい。

現在進行中の1はいわゆるオイシイ仕事なので何も迷わなかった。この「オイシイ」の用法は小室哲哉や古舘󠄁伊知郎が口にするのを聞いた20年以上前から嫌いなのだが、実際にオイシイのだから仕方ない。サンセット通りの北側に広がる高級住宅街の豪邸でドーブツたちのウンチを片付け、えさをやり、時には戯れ、ワインセラーを漁りながら(どれでも飲んでいいって言われた)自分の仕事ができ、それでLAの最低賃金程度のお給金をいただけるというのだから。

セレブ&ドーブツ王国LAにはペットシッター、ハウスシッターのマッチングサービスが山ほどある。Straight Upの主人公はハウスシッターで生計を立てているし、SATCには「自分ち」と偽って留守番中の家に女性を呼ぶダメ男が出てくる。それでも信頼できる人はそう簡単に見つからないのだとその人は言った。ペットの世話のプロよりも、親族を介しているとはいえ、家で飼っていたのはカメだけ、よそのネコを1年預かった経験があるだけの素人に頼むほうがいいのだ。

2は、ファイリング嫌いの私が詳細を要求せずに即答したのには前提がある。仕事を受けたことが何度もあるので、搾取はしない人だと分かっていて(提示された金額は大きくても時給換算するとあ然、という作業はままある)、その人が私にできると思ってくれたならできるんだろう、と思えたからだ。↓

コーリングを感知するコツは?
橋口 よく、仕事なんて選ばなければ、本当はいくらでもあるって言うじゃないですか。
内田 そうだよ。仕事は本当は自分で選ぶものじゃないんだ。向うからお呼びがかかるものであって、いくら「俺はこれができる」とか「こういう能力がある」って思っていても、外部評価が伴わなければ、そういう仕事にはつけない。だから、自己評価って、極端な話、しても無駄なんだよね。どう考えても自己評価より外部評価のほうが正しいんだから。人から「この仕事してくれない?」って言われるのは、その仕事をする能力があるという評価が下ったということなんだから。
名越 例えば、いろんな人から小説書けとかエッセイ書けって言われて、橋口いくよが作家になったのと一緒。
橋口 確かに当初は正直、私に本当にできるかなって思ったけれど、頼まれたこと自体はとても嬉しくて。もちろん最初は食べていけなくて、さっき名越先生がおっしゃったように試行錯誤しながらも必死にやって今日まできました。
内田 そうそう。自分ではそんなことできるなんて思ってなくても、人から「できるよ、やって」って言われたら、原則的にやればいいんだよ。僕も、50代くらいまではそうしてたから。人から「やって」って言われたら、全部「はい」って返事していた。それはできるっていうことなんだからと、外部評価のほうを信じる。
橋口 こういうお話をしていると「内田先生は、次から次に声がかかるだろうけれども......」と言いたくなっちゃう人も出てくるわけです。ちょっと極端な言い方になってしまいますが、1億3千万人、誰しも皆、声がかかるものなのでしょうか。
内田 そうだと思うよ。天職とか適職のことを英語で「コーリング」って言うんだけどもさ。コーリングって、「呼ばれること」なんだよ。「こっちに来てくださーい」って、向こうが読んでる。才能って、その呼び声が小さな声であってもちゃんと聞き取れる能力のことじゃないかな。
内田樹、名越康文、橋口いくよ著 『価値観再生道場 本当の仕事の作法』より

今晩はドーブツがごろごろしているプール脇でアカデミー賞の中継を見ようと思う。「天職」なんて大げさなものではなく、文化的雪かきの末端に過ぎないが、神さまが呼んでくれた場所。神さまは奉仕者を呼ぶ際、人を媒介にする。

映画 The Outfit を見た。グレアム・ムーア『アウトフィット』

『イミテーション・ゲーム』の脚色で成功を収めたムーアの初監督作品。
戦争直後、シカゴでギャングたちをメイン顧客にスーツを仕立てるビスポーク「カッター」の企みを描く一幕劇。

面白かったし、マーク・ライランスはとても良かった。
が、私のギャング・マフィア・ヤクザ映画嫌いをさらに補完してくれた。
今回、ギャングスターがバチコンやらかす物語と知りつつ見に行ったのは「お仕事ものは鉄板」だからだ。
最初はその意味で面白くなりそうに思えたが(チャコペルなつかし~)、結局ハサミは銃の代わりでしかない戦争経験者の闇(病み)な話に終わった。

トレーラー。

映画 Great Freedom / Große Freiheit を見た。カンヌ2021「ある視点」部門審査員賞『大いなる自由』

第2次大戦後、強制収容所から解放されたと思ったら刑法175条(男性同性愛を禁じる法律)違反で刑務所に直行、何度も刑期を務めることになった男性の友情の物語。

長い。
法律廃止前のエピソードは愛に出会うところも含めてほぼ刑務所内で完結しているので、社会における公民権剥奪の問題は見えにくい。というかそこは焦点ではない。

観客席の年配の方々が戦時事情に言及したせりふにいちいちウケていた。あれに思わず噴き出したかれらの事情はわからないし、自虐もあるのかもしれないが...。
「戦争では誰一人殺さなかったのに、自分ちに帰ってから人殺ししちまったよ。なんでやねん」とか、「東ドイツに逃げよう」とか(これは図らずも時事ネタでもあるか)。

トレーラー。

2022年アカデミー短編映画賞ノミネート作5本を一気見した。

ドキュメンタリー、アニメ以外の短編映画を腰を据えて見るのは12年ぶりである。友人の映画学校卒業式で数本卒業制作を見たのが最後だ。
これからも目にする機会はほとんどないと思うが、これはすごい世界だ。先の卒業制作短編は長く感じた上、何も覚えていないのだが、今回はどの作品も強烈なグリップ力で、長編1本見る時間(ちょうど120分)で5話分もトリップできてしまう。そもそもフィーチャーフィルムの長さは必要なのか?といきなりwokeしてしまう。

ドキュメンタリーやアニメと違って大手作品が1作もないところがこの部門の特殊さ。
ディズニー映画やライブのときみたいにオープニングアクト上映したらいいのにね。

どれもよかったが、夢に出てきそうな順に。

■ The Dress 『ザ・ドレス』
すさまじい。なんという残酷な脚本。演者の率直さ。あの幕切れ。あの幕切れ!(2回言った)

主人公を同僚がありきたりなことを言って慰めるシーン、「日本の俳優はこういうシーンがすごく下手なんだよなー」と思いながら見ていた。最近、日本のテレビ局のドラマを数本久しぶりに見てあ然としたので。

トレーラー。

■ The Long Goodbye 『ザ・ロンググッバイ』
『サウンド・オブ・メタル』のラッパー、リズ・アーメッドの内臓をえぐる叫びを聞け。

アーメッドのチャンネルで公開中。

■ Please Hold 『プリーズ・ホールド』
ドローン警察に逮捕され、AI拘置所に入れられたマテオの地獄。
こういう「話が通じねえ!出口がねえ!」という環境、状況、ロボット監獄でなくても今現在もあちこちにある。
とてもありそうな設定で面白かったし、「砂の女」のようにうっかりその環境に馴染んで快適にすらなってしまう瞬間が短い時間のうちによく描かれていた。適応しちゃうんだよね、人間は...。

トレーラー。

■ On My Mind 『オン・マイ・マインド』
ψυχήに始まりψυχήに終わる。5作の中では一番定石どおり。細かいところは突っ込んだらあかんやつ。
カラオケってどうしてもトホホ感がにじみ出るいいアイテムだよね。

ニューヨーカー誌のチャンネルで公開中。

■ Ala Kachuu - Take and Run 『アラ・カチュー テイク・アンド・ラン』
タイトルどおり、誘拐婚を描く。他の4本と同様前知識なしだったので冒頭、青春ものかなー、と思いながら見ていたら突然の展開に何が起きているのか分からなかった。
あくまでWikiの記述だが、日浅い「伝統」をかたる人たちのせいでまだこの風習を撲滅できていないらしい。いや、たとえ字義どおり伝統だとしても今生きている人間が幸せでなければ変えるべきなのだが。なんか聞いたことある話~。

システム、男性性、自分が受けた苦しみを次世代に引き継がせようとする先代の女性集団にも憤怒。
ただ、妹は「絶対に不条理を受け入れるな、幸せになれ」という主人公の願いを受け止めた。彼女はガソリンを消費しても、つかまる危険があってもそれだけは後進に伝えなければならなかったのだ。もうきっと繰り返されるまい。ビバ国際女性デー。ビバシスターフッド。

トレーラー。

ところで、今回は上映前になんと『愛国女子—紅武士道』の予告が流れてドン引きした。もちろん存在も知らなかった作品。日本語のセリフが分かってしまうこと以外、自分に何の関係もないのに妙に恥ずかしくなった。すいません、こんなもん輸出して...。20年前に参加した米国のツアー旅行中、バスの中で日本人客が持って来たアムロちゃんのテープが流れたときと同じくらい恥ずかしかった。
この映画館で上映するのだろうか。製作者の宗教団体がある程度、米国でも力を持っているとうことなんだろうな...。超残念だ。

2022年アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞ノミネート作5本を一気見した。

今年は4/5本が米国が舞台の米国作品だったせいか、粒が揃いすぎているというか、ズレを感じて問いが深まったり、新しい世界が広がったりした作品はなかった。

それでもなんとか、印象に残った順に。
■ The Queen of Basketball『ザ・クイーン・オブ・バスケットボール』
一番面白かった。女子バスケ選手のパイオニア、ルーシー・ハリスの回想。
大学チャンピオンになったはいいが、その後行くところがない、という...。なんとNBAの誘いがくるが、男性相手に闘うのは違う、と若くして引退。
こう何度も「後悔はしてない」と言われると、やっぱりもったいなかったね、今も幸せだけど、もっと感動的な人生を送れたのにね、とこっちが落胆してしまうよ。

『ドリームプラン』を見たときも感じたが、芸ごとで食えるかどうかはすべて運。競技や生まれる時代・場所が違えば、彼女は大富豪になっていたはずなのだ。
まだ60代だというのに、その姿からは元スポーツ選手だった頃の片鱗は伺えない。この頃のアスリートは身体のケアについては学べなかったのだろうか...。

NY TimesのOP-docsとして公開されている。

■ Audible 『オーディブル: 鼓動を響かせて』
脚本がすけて見えるタイプの「ドキュメンタリー」で私は好きではないが、この作品が受賞するかなーと思った。
偶然か、今年度は手話使用者が活躍する作品の当たり年で、特権を持つ側としては賞賛するのも要注意だが、耳を、心をひらかされることが多かった。

今思えば2000年前後、日本でろう者ではない俳優がろう者を演じるドラマがいっぱいあったよね。『オレンジデイズ』『愛していると言ってくれ』(北川悦吏子は常盤貴子を車いすに乗せたりもしていたっけ)、『星の金貨』、6年後にダメ押しの『新・星の金貨』...。

ひでえ話だよ。何とも思わずに見ていた自分が恥ずかしい。今はさすがにこういう作品づくりはないよね。日本の役者の層は米国とは比べられないくらい薄いのは知ってるけど(忍足亜希子しか思い浮かばない)、デフシアターもあるし。
【3/13/2022追記】
という話をしていたら、今週末からNHKで鶴瓶がろう者を演じるドラマが始まって各方面になめくさった仕上がりだとか。なんなの。ノーモア収奪。

Netflixで配信中。

■ Lead Me Home 『リード・ミー・ホーム』
ロサンゼルスとサンフランシスコのホームレス問題を変にきれいに撮影。
いつもの見慣れた光景。
家のない女性たちに暴力をふるい、妊娠させた野郎どもは地獄に落ちろ。

今日、映画館を出たら1ブロック先でモデルみたいにすらっとしたワンピース姿の女性から小銭をくれと言われた。ホームレス状態なのかどうかはわからない。

Netflixで配信中。

■ Three Songs for Benazir『ベナジルに捧げる3つの歌』
選択肢のない苦しみ。Lead Me Homeもそうだが、教育が足りないゆえの問題の家族連鎖。

米国としてはアフガニスタンの被害状況も忘れてはならない。
パリでテロが起きたときも世界からの関心の集まり方のムラについて議論になったが(つまるところ、その地域に知人がいるかどうか、つながりの濃淡の違いであって当然といえば当然。なかなか世界の構造的な暴力にまで思いが及ばない)、今回は各国のレポーターが報道の中で無邪気に差別主義を開陳していて侵攻の理不尽と同じくらい苦しく感じる。黒人親子がシェルターに入るのを拒まれている映像には自分や家族が同じ目にあったような気持ちに。

こういうマイノリティ監督の意欲作をすくい上げているのは、Netflixのいいところだと思う。

Netflixで配信中。

■ When We Were Bullies 『私たちがいじめっ子だった頃』
小学生時代にクラス全員で1人の生徒をミンチにした過去を存命のクラスメイトと教師へのインタビューを通して振り返るという後味の悪い作品。やたらおしゃれなクラフトアニメーションを見ていると「茶化すなよ...」という気分になる。

トレーラー。