英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

映画 For They Know Not What They Do (2019) を家で見た。『フォア・ゼイ・ノウ・ノット・ワット・ゼイ・ドゥ 彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』

引き続き、Pride Month。アトランタ、シアトルをはじめ、多数の映画祭で観客賞を受賞したDaniel G. Karslakeのドキュメンタリー。
原理主義的で強硬なプロチョイスの福音派やカトリックの家庭とLGBTIの子どもたちの葛藤。

イエスが十字架の上から語られた慈悲の言葉がタイトル。
LGBTIに対して「かわいそうに自分が何をしているのかわかっていないのだ」と聖書を盾に同胞を裁き、「治してあげる」ためにお節介をやく人たちのほうが、実は何をしているのかわかっていないのではないか、と問いかける。

神さまがゲイはダメと言うなんてあり得ないと信じるキリスト者の1人として、エバンジェリスト家庭の話を聞くことができてとても興味深かった。

LGBTIを非難する人たちが根拠にしている箇所は以下のような箇所(口語訳)。イエス自身による言及はないのは有名。

またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。(レビ記18:21, 22)


女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。(レビ記20:13)


不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。(第1コリント6:9)


すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。(ローマ1:27)

そのうえで登場する牧師の1人は、「聖書が非難しているのは同性愛ではなく、性暴力や搾取なのだ」と説いた。原書のニュアンスは分からないながら彼の言うことは正しいのだろうと思う反面、そういう解釈の弄り回しは聖書に従いたいと望むばかりに苦しむ人に対してあんまり意味ないように思う。ただ、イエスは絶対に理不尽を言われない、ましてや弱い人間を裁いたりはなさらない、と信じられるだけ。

この映画に出てくるLGBTIの子どもが育った4家庭、どの両親も一度も離婚していないどころか実に仲睦まじいのが非常に希少。ミラクル。
それが実現している背景に、かれらが敬虔なクリスチャンとして結婚を当然のように神聖視していることが大きいと思う。
子どもは親が機嫌よくしていればそうそうグレないので、個別の苦悩はあっても、親ガチャとして見れば大当たりである。一方でその親の信仰がかれらを圧迫する皮肉。
親がどっぷりけがれて子どものジェンダーどころか放置放任の家庭と、深い愛ゆえに子どもに罪の意識を着せてしまう家庭と...どっちのほうがマシだろう。
(もちろん2択ではないのだけど、この街では一度も離婚してない人を非常に珍しく感じるので)

4組の親たちが子どもの真の姿との邂逅を得て映画は終わるが、コンバージョンセラピーにまで通ったライアンは親の理解と引き換えに捨て石になってしまった。それは聖書の上では栄光でもあるのだけれど...。墓標にはまさにそれを言い得た言葉が刻まれている。

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフから)

自慢の息子が改めて女性として生き始め、葛藤の塊だったサラのお父さん。
彼女の素敵なパートナーに会った瞬間、「ああ、これが祈りの答えなのだ」と悟ったという。
結婚式で娘をエスコートできる日が来るなんて、と喜ぶ笑顔に涙が止まらなかった。

Happy Pride.

トレーラー。

再び、地元の映画館に収益が入るプラットフォームで鑑賞。
https://watch.firstrunfeatures.com/products/