プロットを読み、アメリカのロードムービーファンとしてはかなり楽しみにしていたのだが、好きな脚本ではなかった。言葉でしゃべりすぎ。
インタビュー音声、書籍のモノローグ、絵本の読み聞かせ、ドビュッシーなどを媒介にくどくどと説明しまくってしまう油こってり料理。
私には過剰、野暮天。
『フレンチ・ディスパッチ』と同じく、見ているうちに息苦しくなってくる。
一緒にいたはずの子どもが視界から消える恐怖。
私は一度、意識的に消える側になった記憶がある。駅前のお祭りに連れてってもらったとき。人ごみの中、銅像のまわりをぐるりと回ったら面白いんじゃないか?と思って決行したのだ。
大人の脚のジャングルをまんまと一周したら一緒に来ていたおじいちゃんだけが待っていて「あれー、お母さん探しに行ってんで」
今は、ちょうど2000年前にも保護者たちが味わった恐れに同情する。
さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。(中略)両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを探していたのです。」
(ルカ2:41-49)
トレーラー。