英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

外出禁止1か月、ひとりで『バベットの晩餐会』に出席する。Babette's Feast (1987)

州の外出禁止令が出てから早くも1か月。
あの週は映画館が閉鎖し、FedExで人数・時間制限が行われるようになり、ロンドン・ブリード市長の英断によっていきなりサンフランシスコがShelter in Houseを開始し、びっくりしているうちに連邦や市などあちこちから50人以上の集会禁止、10人禁止、5人禁止...とオーダーが飛び交って、木曜の夕方にニューサム知事の命令が出た。

以来、少なくとも私の行動圏内ではみんな真剣に協力している。
仕事も教会も各種ミーティングも一気にオンラインに移行し、お店は閉まり、外食系はテイクアウトのみに。
フリーウェイが空いた代わりに運動のためか歩道のトラフィックが増えたが、お互いに大げさなくらい離れてすれ違う。

そして、多くの在外邦人はむしろ日本の心配をしている。私もそのひとり。
日本にいる家族や友人たちの健康はもちろんのこと、他国が交易を再開したのちも日本だけは各国からのトラベルバンが続いてズルズルと出入りできないままになるのではないか...というおそれである。
だって4/15の国会でまだ「ぎりぎり持ちこたえている」とか言ってるんだぜー。
台湾の「新規感染者数ゼロを達成」の発表は即信じたけど(おめでとう!さすが!)、日本がたとえば3か月後に「ゼロ達成、ついでに死者も他国より少ないままだよ!」と発表したとしても、まず額面通りには受け取れない。残念ながら信頼回復までには政権交代後もなお長くかかると思う。

カリフォルニアは全米でも状況がマシな州ということになっているが、州のブレーンは「想定よりもうまくいっている」としている。50%のカリフォルニアンは外出禁止令に従わないだろう、と踏んでいたらしい。
日本好きな友人が「日本はちゃんとお上の言うことを守るところがアメリカ人と違うよね」と言っていたが、警告のコミュニケーションのまずさもあいまって、これではまるで逆である。

いまの日加の違いでひとつ思い当たるのは、アラームに対する反応。
これまでアメリカで2度、建物の中で火災警報機が鳴る経験をしたことがある。
1度目はニューヨークの学校で、スタッフが「出ろ出ろ」と中にいた人たちを駆り立て、彼女自身は見回りをしたのだろう、最後に出てきた。間もなく消防車もきたが、結局問題はなかったようで、15分ほどで中に戻れた。

驚いた。

日本の小中高に通っていたころも何度も警報機が鳴ったが、一度も本当に逃げたためしがなかったから笑
先生も「いたずらかな、誤作動かな」みたいな感じで、様子を伺う程度。
「警報が出たら、まず生徒を逃す」というプロトコルさえ機能していないのだ。

幸い、どれもボヤですらなかったし、そういうものだと思い込んでしまっていたが、警報が鳴って逃げないなら、年に1度の避難訓練は何だったのか。
考えてみれば実に無意味だ。(震災等も経て今は変わっているかな...変わっているといいな)

ただ、それはマンハッタンという建物密集地帯の特殊性もちょっとあるかな?と思っていたのだが、その後、茫漠と広がる某社屋で警報が鳴った時も、同じだった。とりあえず、みんな外に出た。

私自身にも強い正常性バイアスがあるのは自覚しているが、直感は働かなくとも、アラームには従うようになった所以である。
今の日本は、座ったまま、警報機が鳴り止むのをぼんやり待っている教師と生徒たちに見える。

ところで、私は今のところ仕事は途絶えておらず、以前から半分は在宅勤務だったし、会議も相手が遠方でオンラインだったりで、あまり大きな変化は強いられていない。大きいのは映画館に行けなくなったことで、もともと家で長い動画を見る習慣もないので、全然映画を見なくなってしまった。

が、北村紗衣先生の『お砂糖とスパイスと爆発的な何か—不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』のおかげで、この映画を知って自宅で見ることができた。素晴らしい出会い。
ちなみに初出原稿は今もこちらに掲載されている。
父の世界からの解放~「フェミニスト的ユートピア」を描いた『バベットの晩餐会』

映画の中で、人びとは(土地はいくらでもあるのに)せっまーい部屋で膝を寄せ合って歌ったり、踊ったりする。飲んで食べておしゃべりをする。

めっちゃ、アウトブレイクしそうなのである。

またこんなふうにたくさんの人たちと自由にまじわれる日がくるのだろうか、とほとんど信じられないような気持ちになった。
この2か月ほどでいかにものの見方が変わってしまったのかを実感した。

世界各地のいろいろな「教会」で集団感染が起きた。
西海岸ではコーラスの練習をしたお年寄りがどっと罹患して、うち数名が亡くなった。
日本では学生さんたちが飲み会、カラオケを共にして一斉に感染した。
イタリアや東海岸では集まりを楽しんでいたであろう仲良し家族たちがボロボロと欠けていった。

これから、断続的に禁止令が解除されたとしても、パーリーとかレイブとかクラブだけでなく、こぢんまりした会食さえ、当分あり得ない、と思う。
特に、一番同席してもらいたいお年寄りたちこそ招きにくい...。

今、デーティングしている人、未知の相手を探している人も大変だろうな。
出会いの場がなくなっただけでなく、オンラインで出会ったとしても、実際にどうやって安全に会うのか。
ブライダルチェックのごとく、付き合う前に検査をするのか(しかも、それで陰性でも安全とは言えない)。
Significant othersだけでなく、普通に新しい友達もつくりにくくなる。ほんとに、ごめんよ、子どもたち。

だから、帰りがけのローレンスの言葉には驚いた。
神と人との関係のあり方そのままとはいえ、物理的に人に会えない時代のalternativeが指し示されたようで。

I shall be with you.
Every evening I shall sit down to dine with you.
Not in the flesh — which means nothing — but in the spirit.

賛美も、一緒にご飯を食べるのも礼拝。神とのまじわり。
サタンはその一番の祝福の機会を狙った。
でも、私たちは神をたたえることを決してやめない。

We will be with our friends again; we will be with our families again; we will meet again.
Queen Elizabeth II

バベットの晩餐会(字幕版)

バベットの晩餐会(字幕版)

  • ステファヌ・オードラン
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トレーラー。

アイ~ンのライムライト

最近は昼間に米タスクフォースや加州ニューサム知事の定例ブリーフィング、夕方、日本が開いたら、国会中継やニュースを流している。
で...日本はいつまで「ぎりぎりの局面」「時々刻々と変化しており油断はできない」と言い続ければ済むのだろう泣

私は『8時だョ!全員集合』はあんまり覚えていないのだが、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』は毎週すごく楽しみにしていた。
が、悪い意味でドキドキウオッチングでもあった。母親が嫌がっていたからだ。
でもなぜか、直接子どもに「やめなさい」とは言わず、一緒に見ていた父親に「ちょっと汚すぎるわ、他のにしてよ」とよく言っていた。

『加トちゃんケンちゃん』が終了してからは、シーズンごとのドリフ特番をよく見た。
私が志村けんのパフォーマンスに衝撃を受けたのはその特番のエピソードのひとつだった。

あれはいったいなんだったのだろうか。

一切笑いなし、最後の子ども以外セリフなし、バックには葬式でよく流れる篠笛の旋律が。
もしかすると白黒だったかもしれない。

志村けんと、連れ合い(たぶん、いしのようこだったと思う)、少年の3人家族。
夫婦は大喧嘩し、連れ合いは出ていく。
志村は酒におぼれる。
ずいぶんたったある冬の夜、連れ合いが戻ってくる。
が、座敷で飲んでいた志村は腹に痛みをおぼえてよろよろと立ち上がり、縁側から雪の上に喀血し、妻の姿を見ることなく倒れる。
仰向けの夫のそばに駆け寄った連れ合いは、口をおおって悲痛の表情を浮かべる。
少年は倒れた父の肩を揺さぶりながら「お父ちゃん、起きて、お母ちゃん帰ってきたよ」と繰り返す。

この10分ほどの無声劇を見た子どもの私の精神には相当の負荷がかかった。
以降、ずいぶん長い間、志村の寂しい姿を思い出しては苦しくて怖くてたまらなかった。

だから、『鉄道員』で彼が酒に頼る貧乏なひとり親の役で登場したとき、「血を吐いたらどうしよう...」と不安になった。
幸い(?)この映画では、酔っ払いシーンでお笑いの本領を発揮しつつ、炭鉱の事故で画面の外で亡くなった。

そんなわけで、私にとっての彼のイメージは「大きな悲しみを隠して人を笑わせているプロ芸人」という面が大きくて、逝き方にも『ライムライト』の道化師の悲劇が重なるのがひどくつらい。
最後までお酒が大好きだったという志村さん。家に空き巣が入ったとき、「1人だし、怖いんですよね」と言っていた志村さん。
「好きなことができて、幸せだと思います」という生前のインタビューに私はめちゃくちゃすがっている。

とてもかわいがっていたという彼の愛犬は、今どうしているのだろうか。

ライムライト(字幕版)

ライムライト(字幕版)

  • チャールズ・チャップリン
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スカパラ、上妻宏光氏との共演。こういう姿や、金城武との台湾PR(古)など、喜劇みの薄い作品は上述の印象が薄くて慰められた。勝手な話だけど。

マイホーム、映画館が閉鎖に。

ついにロサンゼルスの映画館が閉鎖になった。
大統領の戦争引き起こしそうな無茶ぶりにビビり、「映画館に通える日常が続きますように」と祈ったのは1月のこと。
まったく予期しなかった理由で、しかも近所の映画館が例外なく閉まるというかつてない事態。
なんというツイストであろうか。

エンタテイメントまわり、映画館まわりでも、弱い立場で働いている人たちが心配だ。

今週見るつもりだったあの作品が再開した暁には、3倍払ってもええわ。

ちなみに、50人以上の集まりは控えろとの指令も下り、あちこちの教会がライブ礼拝に切り替え。
普段から教会堂に足を運べない人のために中継している教会が多いのでテクニカルな問題はないけれど、キリストは、とにかく集まれ、兄弟姉妹みんなで一緒に祈って礼拝して飯を食え、と励ましているので、「ライブ中継礼拝でいいや」となってしまうと聖書的ではない。
とはいえ、そのこころは、人と人が集まらなければ「互いに愛し合いなさい」が実践できへんやろ?ということ。
リモートの今こそ、ますます愛し合っていきたいものである。

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。(マタイ 18:20)

映画 Straight Up (2019) を見た。ジェイムズ・スウィーニーの『ストレートアップ』

いい映画。とても好き。
Well scripted.
Well acted.
Well tuned up.
タイトルがWell said.

全体的に生々しさよりもプラスチック感があるのに、とても自分ごとに感じた。
主人公のトッド君に私の友人の姿が重なったからかもしれない。

Straight Up [DVD]

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  • Strand Home Video
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ポン・ジュノ監督がアカデミー賞受賞スピーチでクレジットして改めて注目を集めた、スコセッシ監督のステートメントが一番に思い出される。

The most personal is the most creative.

これまでいろいろな媒体で「性的マイノリティが親元に帰る」シーンを見てきたが、本作の感謝祭帰省の場面は抜群に良かった。親側の目線も共有せざるを得ない。切ない。
逆に、Love, Simonの家族受け入れシーンがいかに適当でうさんくさかったかを思い出してしまった。
ちなみに、あのアジア系のお父さんのレイシスト発言は実際にこの街でよく聞かれるやつ...。

それから、人間に無条件の愛の達成など不可能だというのが、この物語から分かったこと。
99.9% unconditionalならいけるかもしれない。でも100%は無理。
トッド君も「親は無条件に思ってくれている」とは言うけれど、同時に親からの圧を全身で内面化している。
ローリーを愛しているのも真理だけれど、彼女がパートナーに望むことを満たしていないながら結婚まで願うのはどうしたって自分のためでもある。
だからいかんというのでは当然なくて、人間同士、その弱さを認め合っていきたいと思ったことだった。

Katie Findlay、James Sweeneyの2人を初めて知った。素晴らしく真摯で体がやわらかい。
2人で床に寝転がって初めて手をつないだときのローリーの深呼吸に私まで深い安らぎを覚えた。

久しぶりの、「ダイアローグを一語一句書きとりたい」作品だった。
そして、ここにまた新しいファミリーのかたちが生まれました。

ところで、ここではコミュニティごとに視野もメディアへのアクセスも多様過ぎて、感染症のことなんか知らないままの人も多いのでは、という感じだったが、今日はついに映画館のスタッフさんがみんなブルーのゴム手袋をしていた。
だた、先日行ったリサーチスクリーニングは満員、「サーベイ用に配ったタブレットは、ちゃんとサニタイズしてますからね」と半ば冗談交じりに言われて笑いが漏れた。その程度の雰囲気である。

トレーラー。

お隣から聞こえてくるドラマ

深夜、お隣からマンガみたいな真っ最中の物音が聞こえてきた。
女性の声に、ベッドのギシギシと途中から床をバンバン叩くような音。
今の住まいでは半年ぶり2度目である。

勘弁してくれよーと思いながら、「引き下がれ、サタン」とイエスさまの言葉でサタンを追い払い(人さまのそういう音が聞こえるのって、いろいろな意味でいいことじゃないと思うので)、イヤホンで耳をふさいだ。
1時間近く続いただろうか...。随分頑張ってたと思う。

考えてみれば、親元を出てから、自宅や宿泊先にいながらにして人さまのそれが聞こえてしまった経験は何度もある。
しかも、ロサンゼルス(今回のとは別)の件以外は、ご本人の少なくとも1人を見知っているという微妙すぎる状況だ。

1度目の記憶、
東京は山手線の内側の木造アパートで。ここは壁が薄すぎて、仕方ないところがあった。
隣室の男性と東南アジア系の女性。
このときは私もまだ好奇心にあふれた若者だったので、壁に耳を付けました。おぞましい。
壁だけじゃなく、外からも聞こえたのでたぶん窓を開け放っていたのだろう。
住宅の密集した東京のこと、他の家の人もめっちゃ聞こえていたのではないか。
近所に子どもも多かったけど、親御さんは生きた心地がしなかったのでは。

一度など、2人がもめ始め、女性がドアの外に飛び出して「そんな汚いXXXなめられないよ!!!」と叫んだこともあった。
うちに彼が来ているときにも聞こえてきたことがあって、そのあまりの生々しさに彼は「...ビデオ?」と絶句していたものだ。

2度目の記憶、
ニューヨークの友人宅で。
友人のルームメイトの男性のガールフレンドが遊びに来て、紹介された。素敵なカップルだった。
で、お部屋に引っ込んだところで、めっちゃ聞こえてきた。
友人は無言だった。お互いに聞こえないふりをした。

3度目の記憶、
ロサンゼルスで。
これは同じ住宅ではなく、隣のアパートから。
さすがに普通に暮らす分には何も聞こえない程度の距離とつくりだったので、うちのアパート内では「あれはあえて外に聞かせてるんだろう」「女性はプロではないか」という意見で一致していた。

自分の在宅時だけでも昼夜問わず聞こえたので、相当の回数だったと思う。
プロを疑われるほど芝居がかってあっけらかんとしていたこともあって、次第に聞こえてきても気にならないBGMと化していった。
が、ある週末の昼間、うちの上階の住人がたまりかねてベランダから、"Shut Up!"と叫んだのを機に音はやみ、以降、ぱったりとなくなった。

4度目の記憶が昨晩である。
おしなべて、男性は声を出さないんだな~と学んでいる。

神さま、与えてくださった環境でこういうことが耳に入るのは、どんな意味があるのでしょうか...。