朝のKPCCで、宗教をもたない、もつのを止めた、もてなくなった人たちのインタビューをシリーズで放送している。
生活、コミュニティの一部だからと、神をもたないながらも礼拝に通い続ける若者たち、悲劇を機に何も信じられなくなった人たち。
「いったいどこの神が、子どもが撃たれるのを許すというのか」というある被害者の母親の嘆きはもっともだ。
(クリスチャンとしてのこたえは、神は人知をこえた大きな計画のためにサタンが働くのを許した、ということになる)
けれど、インタビューに応じた誰もが、「でも、神を信じられたらいいなと思う」「また信じることができたら」と言うのだ。
「これまでいると教わってきた神は信頼できない。ただ、自分自身の神に今は祈っている」と。
昔から祈る習慣をもっていた人が、神を信じられなくなるのはつらいだろうな、と思う。
リック・ウォレンも書いているように、私の場合、救われてから信仰を試されるイベントに会った。
でもそれによって信仰が強くなった。
私は今まで神の存在を信じなかったことはない。
受洗の前からもずっと、天にしろしめす意思を信じていた。
ただ、その性質を知らなかっただけなのだ。