英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

私の十分の一献金(シリーズ献金 その20)

所属する米国のプロテスタント教会での献金体験を書いている投稿のアクセスが急増したと思ったら、あのカルトが会見で「十分の一献金」という言葉を使ったんですね。

精神的なよりどころにお金を出すことについて、クリスチャンの私が言いたいのは「献金を強制してくるところはキリスト教会ではない。即撤収!」です。

私自身は洗礼を受けて5年以上たってから、思うところあってマラキ書3章やマタイ6章の言葉に従って自主的に収入の十分の一を捧げるようになりました。

以来7年、キャッシュフローにドライブがかかり、糞づまりが抜けた感じというか、さわやかに稼ぎ、捧げ、贈り、使い、増やすことができて感謝しています。
あまりなじみのない方のために現世的な目に見えることを言えば、生活費について不安がないのは当然のこと(たとえお金がなくても、絶対何とかなるという信仰がある)、年収は2倍になりました。何かやりたいと思ったとき、とりわけそれを誰かのためにしたいと思ったとき、決して妨げられることはありません。

おやつ代程度の「献金」しかしていなかった5年間の、牧師ひいては神様の忍耐力はすごいものだと今は思います。
牧師、神様が信者のことを思えば、「いいから、騙されたと思って十分の一捧げてみなって」と言うほうがラクなわけです。(実際マラキ書にはそう書いてある)
まじめに捧げると決められないことで祝福を逃しているわけですから、歯がゆくてしかたないでしょう。

献金や布施の肝は「手放す」訓練です。
「神は受け取る必要はないが、人間は与える必要がある」のです。
自分にとっての砂利銭ではなく、イタタタ...と感じるくらいのお金を、「余ったら」ではなく「一番に取り分けて(業界用語で聖別という。思えば天引きという言葉がそのままですね)」真剣に差し出すこと。

特定の信仰を持たない方でも、自分が重荷を感じるところ(これも業界用語かな。思いを寄せている、罪悪感を覚えるイシュー。教育支援とか犬猫の保護とか)にまとまった額を決めてコンスタントに捧げ続ける習慣はとてもおすすめです。

蛇足ながら。
この数日間、日系人から「あのリーダーシップのある方が...」「残念だ」とか聞くたびに、いかに彼が国会でウソをつき、カルト含めてお友達にだけ大金を回し、レイシスト・ミソジニストメッセージを垂れ流し、三権分立や日本語を毀損し、市民の財産である公文書を改竄・破棄し、弱者を踏みつけてきたのかをこんこんと説いている。
中には「えっ、そんなの知らなかった」という人もいた。

逆に彼のどういうところを評価するのかと尋ねたが誰も具体的に答えない。
自ら任期を3期までダラダラ延ばしたせいでとりあえず顔にはなじみがあったということか。

海外在住者にとって関心が薄くなるのはしかたないのかもしれないが、私は祖国がニセの「神」のもとで滅亡するのは見たくないし、議会にまともな言葉を取り戻してほしいと思っている。

一度だけ、2013年にオタワを公式訪問した夫妻を見かけた。
日本側の車が到着する前、当時のパーマー首相夫妻が議事堂の玄関を手をつないで降りてきたのが素敵すぎて、アレ夫妻が並んで絵的に耐えられるだろうか...と大変失礼な懸念をした。が、実際にアレが栄誉礼を受ける姿は堂々としていてなんだか安堵した。

人相が悪くなっていったのは2015年ごろからではないだろうか。
市民の声を聞かず、無理矢理おかしな法案を通し、外交プロトコルに反して就任前のトラの靴をいさんで舐めにきたころ。

彼も家ではお祈りを唱えている、と夫人が何かのインタビューで言っていた。彼なりの信仰があったのだろう。
でもその「神様」も、時間をかけて手なずけた公安・警察も彼を守らなかったんだね。哀れだと思う。
あんな失われ方をして心の底から悲しい。