Rick Warren牧師のデヴォーションメルマガから拙訳。
礼拝としての献金
あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。(箴言3:9)
幼い頃、両親のために取るに足らない小さな贈り物を買ったり作ったりしたものです。今思うと、本当にくだらない物ばかりでした。でもプレゼントを渡すたび、両親は大げさなくらい喜びました。欲しかった物がもらえたからではありません。実際、そうではなかったのですから。両親は、私が彼らを喜ばせたいと考えた事実に喜んだのでした。
8歳の頃、リサイクルショップに行き、母親に贈ろうと25セントのドレスを求めたことがあります。とてもおしゃれなドレスだったのですが、サイズは4で、母のサイズは12でした。店員は言いました。「リッキー、君のママじゃ、爪先さえ入らないだろうよ」。私はひどく傷ついて、泣きながら家に帰りました。それでも私がそのドレスをあげると、母親はことのほか感激してくれたのです。母亡き後、彼女の遺品のチェストの中にそのドレスを見つけました。あれからずっと、手元にとっておいてくれたのでした。
神様は誰からも何ももらう必要はありません。けれども献金をする時、人はこう言っているのと同じです。「神様、愛しています。あなたのことを考えています。私の人生で一番大切なのはあなたです」。
聖書は言います。「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ(箴言3:9)」。これは什一献金(tithing)と呼ばれます。文字どおり、あなたの収入の10%、最上の部分を指します。
什一献金は神様を讃えるだけではありません。礼拝の行いでもあります。しかし聖書は、与える行為のすべてが礼拝であるとは限らないと言っています。では、どのような献金が礼拝と言えるのでしょうか。
一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。(第1コリント 16:2)
礼拝としての献金の使途を自分で決めることはできない。 献金の使途はコントロールしたり、管理したりできないものです。神様にその使い道を指示することはありません。
礼拝としての献金は、礼拝の時、礼拝の場で捧げる。 1週間の最初の日に収入の最上の部分を捧げ、「神様、あなたが人生の最優先です」と証しします。
礼拝としての献金は、計画的。 気が向いた時に捧げるのではなく、先まで見通して行います。
礼拝としての献金は、相対的。 何も稼げなかった週は、何も捧げません。少し稼げたら、少し捧げます。たくさん稼いだなら、たくさん捧げます。
神様は何よりもあなたの心を求めています。あなたのお金ではなく、それを捧げる心が求められています。身体の中で最も感度の高い神経は、心臓から財布へとつながっているのです。
★★★
私がサドルバック教会のRick Warrenと出会った大ベストセラー本。邦訳もとても良い。
が、原書をおすすめする。