英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

Kafka on the Shoreを見た。蜷川カンパニー『海辺のカフカ』in NY

蜷川幸雄演出作品を見るのは『身毒丸』以来か。
プログラムに、「ドクターストップで渡米できず残念だ。私のソウルはカンパニーと共にある」とあり、上演前から涙。

これは蜷川カンパニーに限らず、日本の役者に多いと思うのだけど...
カーテンコールのときが最も魅力的で輝いている、というのはどうしたものか。
手を胸に当てて感謝を述べる宮沢りえちゃん、去り際にニコッと笑った藤木直人(これまぶしかった。実際あまり表情見えてないのに、彼の立ち姿が発光していて笑顔を見せているのが分かった、いやほんと)。
どちらの姿にもドキッとするほど惹かれた。芝居終わって初めて...
『身毒丸』で評価された藤原竜也くんでさえ、芝居中よりもアンコールの無邪気な表情のほうがずっとよかったぞ。

彼らは劇中では「生きて」いなかった、「ヘタ」だったってことなんだろうか... ?
その意味では、カフカやその他の役者は演技中もカーテンコールもギャップなし。
ただ華の違いかもしれないけど。

それで、ストレート演技メソッドについて考えた。
真実でないと、見る者の心は動かない。だから真実の感情、真実の動機を再現するべ、と演技を科学化したのがアメリカ式メソッド。
大本はヨーロッパかもしれないけど、このプラグマティズムなアイデアはアメリカ製だと言っていいと思う。

また、NOHOにも戻って、演技とは何ぞや?と考えてみたい。

ちなみに今回観劇していて、いわゆる「演劇的表現」に耐えられなくなってる自分には哀しいな、と思った。
鈴木杏ちゃんや「カラス」のセリフの吐き方とか辛くて辛くて。りえちゃんが歌う演出も私には無理でした。

そういえば、いたっけ、カフカ?

今回、もちろん英語字幕付きの舞台だったのだが、全くダイアログを解せない芝居を3時間眺めるの、つらすぎないか?
プレス席なんかも字幕と芝居と同時に見るの厳しいと思うし、本当に観客の対象が限られる...
3日間しか上演できないわけである。

私は上階の中央だったので、字幕含めて全体が見えたが、それでも演者と字幕の距離が広いので映画のようには読めない。
でも、途中からカフカとカラスのセリフは聞くより字幕読むほうがラクだった...
彼らのセリフ、滑舌のせいかなぜか頭に入ってこなくて。
ちなみに「わりと良い席だけど字幕が見えづらいコーナー」っていうのはやっぱりあって、日本語を解する人向けに案内してたようだ。

これからシンガポール、韓国に巡業するそうだ。

今回北米内3カ所の空港に行ったけど、空港内の書店には必ず村上春樹が平積みになってんだよね。

<追記>
「真のふるまい」で際立って見えた演技を洋画でひとつ思い出した。
『フォー・ウェディング』で、ヒュー・グラントがベンチに友人たちと集って談笑しているシーン。
適当にしゃべってるところを撮ってみました、みたいなシークエンスなのだが、そのときのヒューの一瞬の笑顔がものすごく新鮮で三度見した。
ああいうのは「素」との境が曖昧で、「演技がよい!」と評価しにくいのだけど、確かなのは同じ映画の他のシーンで何度も見せた笑顔とは全然違った、かつそれが最も魅力的だった、ということ。