英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

映画 Spencer を見た。クリステン・スチュワート is『スペンサー ダイアナの決意』

ダイアナが亡くなって25年。存命なら今年還暦を迎えるはずだった。

『ジャッキー』の監督ということで、またあれを見せられるのもどうよ、と躊躇ったが、題材とスチュワートの魅力に勝てず見に行った。

病みな人の内面は退屈だったし、アン・ブーリンを絡めるのも要らんかったと思うが、このパッケージとしてハッピーエンドだったのがよかった。

スチュワート、出だしは大げさすぎないか?とドキドキしたが、すぐに慣れた。息のつけない日常の緊張状態から解放されるところが体感をもってよく描かれていた。

ここからはあくまでこの映画でポートレイトされた「ダイアナ」の話。
いくつかのやりとりでダイアナに学がないところが示唆される。
彼女が幸せになりにくかったのは、自分を客観視できる、自分のボイスをつかまえるだけの教育が足りなかったからだと思った。
勉強嫌いでもいいんだけど、だったらメーガン・マークルみたいにストリートスマートでないと。
結婚があまりにも早すぎた。

一方、眞子さんはICUや英国でリベラルアーツを学ぶことを選び取り、文字通りリベレートされたのだと思った。
小学生くらいの頃は父親の手にしがみついて顔をこわばらせていた眞子さんが、成人してからは緊張がとれたように見えたから。
早くアメリカにおいでなすって。そしてたくさん深呼吸をしてほしい。
本当に本当におめでとうございます。
落ち着いた頃に、新しい仲間に祝ってもらってガーデンウェディングとかやったらいいよね?ね?ね?(暴走)
何様か知らないけど結婚に反対してた人たち、彼女が一時金を辞退して婚礼イベントも一切とりやめて、さぞかし満足でしょう。

今読み返しているダイアナの声。没25周年記念版。

これ読むと皇太子への怒りしかわかないし、ダイアナ妃が亡くなったときの友人マザー・テレサの言葉「神の意思がわからない」を反芻せざるを得ない。婚礼の2週間前に既に傷つけられて幸せではないと思ったことをはっきり受け止める言葉、結婚やんぺを言い出す勇気を持たなかった彼女を気の毒に思う。

そういえば、マザーの言葉を受けて、セブンスデー教会の知人が「あのまま彼女が生きていてろくな人生を歩んだとは思えない。明確な神の善の意思だよ」と言うのを聞いてウヘエと思い疎遠になったのよな。

トレーラー。

映画 The Souvenir: Part II を見た。ジョアンナ・ホッグ『スーヴェニア パート2』

ジョアンナ・ホッグ監督の映画学校時代の半自伝、その後。
もともと2部構成の予定で撮られた作品なので、前編なしではイミフだと思う。
映画学生物語として卒業制作のプロセスが描かれているところが前編よりも面白かった。

映画製作を意識的にしろ無意識的にしろ自分のセラピーに使おうとして、役者からは「このキャラクターの真実がつかめねえ」、スタッフからは「段取り悪すぎ白目」と文句言われるジュリー監督。すごく身に覚えがあって胸が痛い。

劇中劇的な幻想シーンは短いが退屈で飛ばしたくなった。
『騎士団長殺し』の石室に入ってからの100ページくらいを思いだした(斜め読みした)。

80年代のことゆえ、撮影現場でも車内でも映画館内でもみんな喫煙しているのだが、少なくとも日中からタバコ撲滅できてほんとによかったなぁとしみじみ思った。灰皿の用意・片付けの面倒さや各種毒素はもちろんのこと、メンタルにも良くない。吸ってる人も吸わされてる人もイライラカリカリが増殖する。
日本ではパワハラ茂木が幹事長になってしまうらしいけど、あのひと、喫煙できないとすごく機嫌悪いんだってね。わかるー、そんな感じー。
霞が関ではまだまだそんなにタバコ吸えるんだね。だから日本は世界でも生産性低過ぎなんだよ。

ティルダ・スウィントンとイングランドの散歩道(というか野原)が美しくて豊かで目を奪われる。
ジュリーの角部屋フラットと実家のインテリアが心地よさげ。

大変個人的なフィルターだが、ジュリーは顎や後頭部や髪が遠くに行った友達とすごく似ていて、前編に引き続き気が散った。ジュリーの表情にその人のことがしきりと思い出されて。

トレーラー。

映画 The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun を見た。ウェス・アンダーソン『フレンチ・ディスパッチ』

初めてひとりでニューヨークに行った十代のとき、『ニューヨーカー』誌をおみやげに買って帰った。
その程度には『フレンチ・ディスパッチ』のモデルになった文芸誌の世界には惹かれているけど、この映画は残念ながら好きになれず。
私にこれを楽しめる素質がない。足りないのは知識か忍耐か経験か。

とりあえず、時間をみっちりナレーションで埋めた映像が苦手。
「うるせえなあ」と思ってしまう。
第2話の半ばで観客が2人脱落したけど、むべなるかな。(チケットは$5で途中退場のハードルは低いのだ。私は最後まで頑張った)

唯一刺激的に感じたのはキャラクターがフランス語を発したとき。
でも、あえて「フレンチ」ゆえに起用したのだろうと期待していたティモシー・シャラメのフラ語演技は一切見られず。
フランス語で言葉を投げかける相手に一貫して英語で言い返す。どないやねん。そういうフィクション好きだけどさ。

アニメーションシーン含め、舞台美術は美しいし楽しい。

アメリカの田舎にリバティとかインディペンデンスといった名を冠した町がたくさんあって(『大草原の小さな家』にも「都会」として出てきました)斜陽のときを過ごしているのはしんみりするものがある。

トレーラー。

アムステルダムの映画館で『東京物語』を見た

最近ではなく、パンデミックの足音がひたひたと近づいていたクリスマスのころの話。

アンネ・フランク・ハウスにほど近いプランセンフラハト沿いにその映画館De Uitkijkはあった。
間口の狭い正面は小さなカフェになっていて、窓口らしいものはない。カフェのレジでチケットを買って初めてカウンター裏の劇場入り口を案内されるのである。シークレットギグっぽくて期待が高まる。

ついでに言うと、もう1軒行ったアムスの別の映画館は個室つきのレストラン併設で、そこで誕生パーティか何かをしていた子供たちが上映中にウェーイと乱入してくるというハプニングがあった。のんびりしたものである。

De Uitkijkに戻る。
そこではホリデーシーズンに日替わりで古い映画をやっていた。
いよいよ『東京物語』を見るときがきたのだ。
念のため、レジのお姉さんにオリジナル音声での上映かと尋ねる。「うちはオリジナルしかやらないよ」とお姉さん。
この国で英語の映画が上映されるときと同様、オランダ語字幕上映だった。
館内は7割くらいの入り。

『東京物語』はむかーし小劇場の裏方をしていたときに見るべしと言われていたし、日本国外の批評紙の映画ランキングで1位になってたりするし、ずっと気になっていたのだがなかなか縁がなかった。
それは、静かな白黒長編作品を家でじっと見るのはつらい、と思い込んでいたからである。

見てみたら、それはまさに「思い込み」で、この映画はむしろドタバタ喜劇であった。
ひたすら明朗。
カット割りが速いし話がどんどん進む。察してくれ、みたいな隙が一切ない。
温泉でも行ってきたら? → 次の瞬間には温泉の老夫婦の後ろ姿。
笠智衆のドリフ的酔っ払いシーンは地元の人たちにも大いにウケていた。

見るのに体力を要求する映画だろうと思っていたのは、『晩春』で父娘が旅先で就寝するシーンで襖だか床だかがぼんやり映されるカットを見たヨーロッパ人が「父娘がそういう関係になった」とトンデモ解釈した、という都市伝説を聞いてたがゆえのバイアスだった。

後で、この時代はフィルムが貴重だったので長めに何度も撮る選択肢がなく、いろいろな意味でてきぱきせざるを得なかった、という話を聞いて膝を打った。
今は長編の撮影といえば、編集のための材料づくり、みたいなとこがあるので。

原節子の言葉の印象に残ることといったら。
1度見ただけで、2年たった今も、「私ずるいんです」はもちろんのこと、「お父さんたち、いらしたの」とお隣さんにお酒を借りに行くシーンがまざまざと。

杉村春子のふてぶてしさもいいわ。
昨日の選挙で日本の選択的夫婦別姓の実現がはるか遠いことを思い知ったが、この時代でもすでに「家族」は崩壊してるじゃんね。幸せな人が増えない家父長的な社会制度反対〜。

さて、映画の後に会ったオランダ人ともひとしきり日本映画の話で盛り上がった。
映画好きとしての贔屓目もあるだろうが、彼は「ヨーロッパでは是枝は別格」とものすごく大きな主語で言い張る。
彼自身も『万引き家族』終演後、「今見たものは一体なんだったのか」と呆然として立ち上がれなかったのだという。

不意にクール・ジャパン政策に消えていった何億もの無駄金を心から惜しく思ったクリスマスだった。

この数日後、まだ世界がコロナのコの字も知らないとき、中央駅からスキポール空港に向かう列車で激しく咳をする若者がいたのも忘れられない。
日本国外では珍しく、素手で口を覆っているのが気になって...。(少なくとも米国で公教育を受けた人は腕で受ける。手は感染が広がりやすいため)
そして2か月後、海を挟んだアメリカ大陸では都市封鎖が始まったのだった。

映画 Passing を見た。レベッカ・ホール × テッサ・トンプソン × ルース・ネッガ『PASSING 白い黒人』

これほど白黒で見せることに意味のある作品があるだろうか。
実は見る前は、ルース・ネッガ(『Loving』以来、とても好き)をパッサー役として説得力を持たせるためにやむなく白黒にしたのだろうか、などと疑っていた。いろいろ間違っていた。すみませんでした。
仮にそういう理由だったとしてもカラーでもどうにでもなるよな。

ただ、個人的にはあまり本来のテーマの機微は感じ取れなかった。Nワードがあまりにも浮いていた。
それよりも『グレート・ギャツビー』と同時代の「時間をもてあましてうっすら不幸せなマンハッタンのフラッパーたち」の物語として楽しんだ。
筋書きは知らなかったけど、ネッガが登場した瞬間から不幸な結末を予想できたし。

passの語がかけ言葉でたびたび出てきて翻訳者さんは歯がゆいと思う。連帯の挨拶を送ります。

ネットフリックス配信は11月10日から。
にもかかわらず、よくお客さん入ってたよ。
今後数週間は賞レースを見据えた作品が続々出てくる。

【10/31 追記】監督は原作を読んですぐに白黒映画にするビジョンを描いたという。
自身のアイデンティティも含め、その判断の経緯が垣間見られてとても興味深い記事。
‘Passing’: Rebecca Hall Made One of the Year’s Best Debuts, but for Years Nobody Would Fund It

There really was that moment where I thought, ‘Am I going to make this film in color or am I going to risk not making it at all?’ And I chose risking not making it at all...

【11/3追記】この記事も面白い。カラー映画でのルースやテッサを知っているゆえに作り手の狙いに乗り切れなかったという残念さ。
This Movie Season, It’s a Black-and-White Boom

The hotel tearoom scene "is so bright that it’s difficult to tell" the characters’ race, a deliberate choice, the cinematographer Eduard Grau said.

1929年出版のNella Larsenの原作。『グレート・ギャツビー』は1925年刊行。