英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

映画 Madres paralelas/Parallel Mothers を見た。『パラレル・マザーズ』

この映画がクィア・ライオンにノミネートされた(カテゴライズされた)のは疑問。
ハリウッドで評価が高いのも疑問。
たまたま数人マイナーな性的指向の人が出てきたものの、あくまで血縁の妙をテーマにして失敗した作品としか思えなかった。脚本が非常に粗雑。子どものガーディアンの変更が安易すぎる。スペインではあれでいいの?
最後の引用句なんか的外れもいいところ。「そんな話全然してなかったやん」と言いたくなった。

私は「この人がいいと言うなら見る」と決めている批評家が10人くらいいて、あまり一般オーディエンスの口コミは参考にしないので言うのだが、「性的マイノリティの人物が主人公、クィアカルチャーがモチーフ」となったとたんに評価が甘くなる批評家が多いのよ。
クィアカルチャー、スピリチュアル、英国ピリオドドラマ傾倒がハリウッドのサイキなんだ(本作はスペイン映画だけどNetflixの資本が入っている)と言われれば、それはそういうものなんだろうなと思うのだけど、その高評価を参考にしてる私としては...。

同時に「できない女性も昇進するようになったら、かなり男女平等が達成されたと言える」という言説を思いだしたりもする。

個人的には、クィア・ライオンやクィア・パルムはいずれなくなったらいいと思ってる。
たとえば、アカデミー賞の作品賞にアニメ『美女と野獣』がノミネートされたとき、「これはいかん」と長編アニメ部門が設けられたのは理にかなっていると思った。
でもこれらの映画賞の言うところの「クィア」のカテゴライズは、グラミーにBTS対応のためにアジアンポップ部門が設けられるのに似た「本賞の対象になったら困るとでも?」感がわく。

赤ん坊の取り違えって今も時々起きて訴訟になったりしてるけど、本編のArturoみたいに「違う」とセンスしないものなんですかね。
とりあえずケアしてくれる人間を逃さぬ、という赤ん坊の生存戦略かな。親側にも、ここで描かれたように「先祖のどこかの誰かに似てるのだろう」と思い込もうとする意識が働くのか。

まあ、ああして郵送でDNA鑑定ができなかった前史には実は血縁者ではなかった、それを母親だけが知ってる(あるいは彼女も認識していない)という例はさんざんあったと思う。
だから、日本の皇室について万世一系とかエグイこと主張し続けるのやめましょうよ。

ペネロペが化粧落とさないで寝てるの気になるわ~。シーツ汚れるやん。
マドリッドの路地裏は♥

英語字幕で鑑賞。

トレーラー。