1972年、LAの教会でシドニー・ポラックが撮りはしたものの、カチンコを忘れて音と映像をシンクさせられなかった等々で長らくお蔵入りになっていたスーパー貴重映像が現代の技術を得てついにスクリーンへ。
燃え上がる教会、湧き上がる魂のリズム。It takes a church!
彼女たちのゴスペルについて今更ここで何も言う必要はない。
この映像で私が目を離せなかったのはアレサの一貫した真顔だ。
愛想笑いどころか、どんなに熱唱しても陶酔のかけらも見せない。
間違っても自分は決してノリノリにならない。
出始めはかすかに緊張が感じられるものの、終始めっちゃ冷静。めっちゃフラット。
うぉりゃーーーとシャウトした後、パッと無表情に切り替わったり、サッとやり直しの指示を出したりする。
漢字一文字で表せば「理」。
クールな頭、熱いハート。
あれがキリストの僕、奉仕者の顔。
ギフトを私有物でなく、神からの預かり物として命をかけて守っている人の姿なんだ。
...自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ7:10)
一心に神の栄光を体現しているアレサの横では、途中から出てきた父ちゃん(牧師)が傲慢ぽく、ウソっぽく、汚れて見えちゃったもんな。
彼が登壇して娘の思い出話をしたとき、アレサは居心地悪そうに見えた。
「やめて父ちゃん、人間に媚びる言葉でペラッペラ喋るんじゃねえ」というところか。
前から、顔芸が大げさな音楽家よりも無表情の音楽家の演奏のほうが素晴らしいと思っていた。
たとえば日本人ジャズピアニストなら、顔芸派で思いつくのは上原ひろみとか、綾戸智絵とか...。
対して大西順子のクールさを見よ。
音楽に限らない。
最近、ギフトに対する責任を真剣に背負っているように見えたのは大谷選手。
昨年、ダッグアウト裏で打席に出る前に素振りする横顔と清潔な襟足を見て、humbleさを感じた。
(実際は知りません。でもイチローの引退会見がハリボテすぎてまともに聞いていられなかった者からすると、大谷選手は真面目に我を差し出しているように見えた)
ちなみにその日は球場ガラガラ、聞こえてくるのはCome on, Mike (Trout)!の声援ばかりで誰も大谷知らないみたいだった...知ってるうちらがせっせと応援しないとね...。
本物といえばもうひとつ、ニュージーランドの銃撃事件後、追悼や激励としてオセアニア各地の人たちがマオリ族の民族舞踊「ハカ」を踊る映像があちこちで流れた。
あれ見てると、いろんなものに対する敬意がグググーッと伝わってきて知らず知らず涙が流れた。
人間が人に見せようと自我で芸事をしているんじゃない、鳥が歌い、花が咲くように、被造物としてそうせざるを得ない喜びの発露、礼拝だと思った。
で、その直後にハリウッドにONE OK ROCKが来たので誘われて見に行ったところ、ライブのあまりの感動のなさに呆れた。
何度も「一緒に歌ってくれ」と繰り返すクイーン気取りのボーカル。(あんまり誰も歌ってなかった)
両脇のベースだかギターだかの2人に対しては、ろくなパフォーマンスでもないくせに前に出てくんな、とイライラした。
まあ、彼らも気の毒なのは、アレサのナチュラルに全員参加!のゴスペルコンサートと違い、観客みんながスマホ掲げて動画を撮っていて、「ライブ」というより撮影会状態だったことです。
せっかく現場に足を運んでも誰も今を生きていない。
曲間には目の前にまだバンドがいるのにスマホいじりを始める始末。
最近はどこのライブもこうなのだろうか。
知らない歌の数々をボーっと聞きながら「ああ、それよりも帰って『ハカ』のビデオを見返したい」としきりに念じていたのだった。
Amazing Graceに戻る。
教会の中、外にかかわらず、真の奉仕者のビジョンを得られる機会はそうそうない。
私もあんなふうに、人ではなく神だけを見上げて生きたい。
(Reverend Dr. James Clevelandと同じく私もこう呼ばせてもらう)
アレサ・フランクリン姉妹、なんという恵み。
そして米国内だけで200万枚を売りました。今でもゴスペルライブ盤の史上最高記録は破られていません。
トレーラー。