英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

イースターの日に。

HE is risen!

イースター礼拝に行く途中、今日一番にすれ違った知らない人がガッツポーズをしながら言った。
「イエスが復活したよ!」
まるでAD30年頃に戻って直接グッドニュースにふれたかのように錯覚した。

なぜか、今年は彼が蘇った感がとても身に迫って感じられた。
なぜか、と言うのはこのイースター週末、彼の受難を覚えて断食するつもりがサプライズパーリーがあってむしろ食べまくっちゃったし、締め切りが重なってグッドフライデー礼拝にも行かなかったし、2冊も趣味の本読んじゃったし(後述)、と、あまり真摯に過ごせなかったので。

先週、友人が救われたからかもしれない。

でもこの週末にこそ読めて感謝したもの、いろいろ。

久しぶりに内田先生のブログを見に行って、この国語科教員に向けた講演録からは、キリスト者として言語オタとしてプログラマとして、いちいち頷くことが多かった。
内田樹『言葉の生成について』

いつも「まだ服を着ていない思い」が着ることのできる言葉を探している。

私の言葉探しも一生続くと思うのだけど、同時にキリスト者はジーザスという服を既に着た存在でもあります。彼こそが私の言葉。

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3:21)

テクストを読んでもすぐに分からない、中腰の状態に耐えることが大事、と書かれていますが、聖書に挑む姿勢も同じです。
むしろ、特に現代の頭では「分からん!」という箇所(私にとってはタラント、不正の富のたとえや、ジーザスのちゃぶ台返しなんかがそう)にこそ、神が一番言いたい真理が潜んでいる、と私たちの牧師は言います。
「中腰」は私の一生続く楽しみです。

そしてもうひとつ、日本語教育の価値の希少性を述べる中にあった「東アジア各国の人々が、漢文というリンガフランカを失ったことが相互理解の深まりを妨げた」という仮説も頷けるところがあります。
というのは私は北京五輪の開会式でレーザー光線が打刻した、
有朋自遠方来、不亦楽乎
に驚くほど胸を打たれたからです。
目の前に広がる景色というのがありました。
で、これはいくら翻訳したところで、漢字を理解しない人とは(似たものは可能でも)完全には共有できない景色であろうなと思ったのです。

そして、半沢直樹における「障害」のパワーにも書いたけど、電書化を待ちに待った本。
私が何度読んでも飽きない本は現代ものだとルポばかりだなあ。聖書もルポだぜ。

片端から読んでいる佐藤優氏の著書、特に対談はキリスト教徒としての知見が面白いので「新刊だー」と思い特に調べずに買う。
と、ナイツの学会信仰についても語った内容で、たまたま昨日、仕事の手伝いをした人が学会員だったこともあり(L.A.にも相当数の会員がいて強力に支え合っているようです)非常に興味深かった。
思えば私も、一体どのような教えであれだけの人が集まるのかと疑問を持ち、サイトを見に行ったことがあったのだ(サイトでは全然ポイントが分からなかった。この本は信仰者が生活を通して語っているのでよほど分かりやすかった)。

そして、ずっと心に溢れていたゴスペルは懐かしのローリン・ヒル。
Jesus is my portion.