英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』を読んだ (1) 文理分けのバカらしさとリベラルアーツの底力

久しぶりに日本語の本を紙で読んだ。ずっと前に買って実家にあったのを、一時帰国で持ち帰ってきた。
なかなかエキサイティングな内容だったのでメモ。

野崎 この冬学期はフランス語テクスト分析というのを2年生向けに少人数でやっていて、いまプルーストとか、サルトルとか、カミュとか、どんどん読んでいるんだけど、理系の子たちに熱心なのがいる。たとえば数学科の子が完璧に予習してくる。(中略)
でも、とにかく未知の言葉の世界をのぞく楽しさというのがこたえられない、面白くて参った、というんですよ。「フランス語と私」という作文を書いてもらったら、たとえば「あらゆることが面白く感じられました。メゾンとかセゾンとか知っている言葉が出てくるだけでわくわくする」とか、「フランス語にthis isとthat isの区別がない」とか、「目的代名詞を動詞の前に出したりするのに興奮してしまった」とか書いてあるわけね。「なんだか単純な私です」というんですけど、この単純さは高貴、ノーブルだと僕は思う。


斎藤 それは数学者の高貴さですね。


野崎 「フランス語をやっているうちに自分の周りの世界の色が変わってきた」と。世界観がちょっと変わってくるというんだね。あるいはさらに引用してしまうと、「単純にフランス語の勉強で毎日が楽しかったというだけで自分の世界の見え方の変化を説明するには十分かもしれません。つまり、ささやかな喜びというもので世界の見え方が変わる」。これには泣きましたね。

私も泣きました。なんという幸福な学びだろう。
人を解放するリベラルアーツの真髄だ。
学問のイミフなカテゴライズが知性の可能性をグッと狭めてしまうことがよく分かる。
まあ、日本における文系理系という分類のナンセンスはこの舞台、東大の「文科」「理科」が元凶なんではないかと疑ってるんだけど。

斎藤 (中略)バイリンガリズムというのは小さいときから、それこそ両方同じように与えてやらなくてはいけないけれども、僕のめざしている英語教育あるいは英語学習は、日本を守るためとか、それこそ国防のための外国語ではないけれども、やはりそれは違う国の言語ですよということを認識した上で、それを技芸として極めるということかな。それによって、それがこちら側に入ってくるのを防ぐ。
いまは両方曖昧にしようという流れがあるけれど、それをすると結局、言語文化というのは貧困に陥りますよね。教養として学ぶ語学というのがあってもいいし、あるいはかつての英米、いまはいろんな国の人たちが書いている英語の作品の一番美しい部分を味わうためにも必要な知識を獲得するという発想があってもいい。
しかし、それによって犯されてはいけない部分ってあるわけですね。日本語はわれわれにとって一番繊細にものを考えることを可能ならしめる言語ですから。それをお互いきれいに使い分けることのできる語学のありようというかね。それはバイリンガリズムではないんだけれども、技術としてそれを極めるというのが僕が一番理想とする英語学習のあり方なんです。


野崎 そういう自覚を持って向かわなければ、グローバル化する言語である英語の使い手として無意識的に英語の世界支配の原理に従属することになる。その中に封じ込められてしまうわけですよね。ところが、ほんとうに自覚的に英語を探求するということは、それを常に日本語と照らし合わせることと切り離せないし、そのことによって世界が二倍になるというか、複数化するというか。(中略)
ヴィトゲンシュタインの有名な言葉の一つに「世界が私の世界であることは、私が理解する唯一の言語の限界が私の世界の限界を意味することに示されている」というのがあります。『論理哲学論考』を理解しているなんて僕にはとても言えないけど、これは要するに、言語の限界というのは私の限界であるということですね。
逆にいうとわれわれが一生懸命文法をやってから、英語やフランス語の書物に立ち向かってちょっとでも「あ、わかった」と思うときは、やっぱりいままでの世界から一歩外に出たっていう気がしますよね。自力で世界の枠を広げていっているという感覚が確実にあるわけで、その体験の豊かさというのはいわゆる実用的なコミュニケーション中心の発想とはちょっと違う次元のものなんですよ。

そうそう、世界を規定するのは言葉であって、言葉そのものが実体なわけ。このアイデアには「言葉は神」と宣言する聖書の影響もあるかもしれない。日本の英語啓発本でよく見かける「言葉はツールでしかない」っていう言説はそれはそれで分かるんだけど、非常に危険でもある。
アメリカはえげつないので、言葉を覚えて使えるようになることよりも、「言語の学習は脳の発達に良いから」という理由で外国語クラスを必須にしている学校もある。で、それはエビデンスを提示されなくても「間違いなく脳に良いであろうな」と納得できるのである。以下、つづき。

斎藤 うん。そもそも自分の殻を破って出て行ったところに世界がまたあって、それは非常に豊かなものだというのを繊細に感じ取るには、それをもともとの体験として意識化している日本語もやっぱり豊かでないと駄目なわけですよ。最初はやっぱり一から始めるわけだから。
こんな素晴らしい世界があるということを繊細に、鮮烈に感じ取るための意識化の仕組みは日本語でしかありえないわけで、それが高度であるほどその感動が大きかったり、あるいは実際の英語の修得度とか、ほかの外国語の修得度にも関わってくると思うんだけど、あくまで日本語を完全に、非常に繊細なレベルまで高めておいて、そして外国語を引き上げていく。そのやり方が少なくとも日本人の外国語学習の一番健全なあり方だろうと思う。
一部のバイリンガリズム妄信の人たちは両方同時にやっていこうとする。あるいは両方やることでお互い相乗効果があると考えているようだけど、人間の能力なんてそんなに豊かなものじゃないし、実例がないんだもの。日本語と外国語がほんとに自由自在に行き来できるバイリンガルで見事な文章を書ける人がいるとしたら、それはどちらかを極めて、技芸としての語学をそのあとで極めて、それで翻訳という作業を通じて行き来している人であって、小さいときから両方の文化を行ったり来たりして、そこまでの高い運用能力を持ったバイリンガルを僕は一人も知らないし、歴史上も知らない。


野崎 まあ、とりわけ日本では稀でしょうけど、世界的に考えてみれば実例は多々あると思うんですよ。(中略)しかし一つ言えるのは、それは自然にそうなったのではいささかもなく、ご当人たちの大変な努力と才能があってこそだったに違いないということですね。
普通の子どもにそういう夢を託したらとんでもない負担をかけることになるのは間違いないと思う。本人の意思と関係のないところで、環境によって見事なバイリンガルになった、という例はないわけじゃないのかもしれないけど、それを教育の原理にするのはむずかしい。


斎藤 それは偶然の産物であって、当然失敗例が出てくる。そんなことをやって失敗した例のほうがはるかに多いと思いますよ。たとえばカズオ・イシグロという作家にしても、5歳まで日本にいて、両親が日本人だから家では日本語をしゃべっていたわけです。あれだけ高い言語能力を潜在的に有している人だから、イギリスに行って定住したって、両親が日本人なんだから日本語がしゃべれてもよさそうなものだけど、結局英語の母語話者になっちゃうんですよね。(中略)
だから、それはあくまで子どもの個性によるし、どれだけ両方の国にいたかという偶然にもよるし、すごく大変なことなんです。
僕自身は会ったことがないし、歴史上知らないと言ったけど、ほんとに両方きれいに使える母語話者はもしかしたらいるかもしれない。しかし、それはあくまで偶然の産物であって、とてつもない努力の産物であって、それを教育システムでつくり上げようというのはどう考えたって間違いだし、それに国がお金を出すなんていう、この愚かな政策は何としてもやめなければいけない。

斎藤兆史・野崎歓著『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』より

(完璧なマルチリンガルがいたとして)それは「とてつもない努力の産物」。
私がアメリカに来て驚いたのは、ヨーロッパ圏出身の人たちも「子どもの頃移民して毎日英語学校に通わされた。ちょー辛かった」と言っていること。よく「日本語は英語から遠い言語だから」って英語学習を怠けていることに妙な言い訳する人がいるんだけど、遠かろうと近かろうと、勉強は大変なんだよ。
蛇足だが、カリフォルニアには英西バイリンガルが多い。が、そのくらいの努力ができるはずの彼らが社会で高い地位を占めているとは言い難い。いつもナゾに思っている。

翻訳篇につづきます。