英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』を読んだ (2) 翻訳篇

翻訳の楽しみ、また特に日本の翻訳語の豊かさがじっくり書かれていて、翻訳者のはしくれとして、共感。

斎藤 さっきも言ったように翻訳はある意味で研究であるわけですよ。その訳者がどう異国の言語と向き合い、それを受容したか。それがすべてそこに凝縮されている。それを読み取らないことにはね。そのズレの中にこそ、日本語として不自然なところにこそ、実は本来の作家の何たるかがある。
それはもちろん誤訳だからいいとか、不自然な日本語だからいいと言っているんじゃなくて、どうしても日本語にならない部分があるからこそ他者なのであって、それを積極的に見ないといけない。特にいい翻訳であればあるほど、そういう不自然な部分はきちんと残るはずで、それはもっとはっきり評価すべきだと思いますね。


野崎 つまり、異なる部分があるからこそ翻訳する意義もあるということになるのかな。


斎藤 そうですね。


野崎 それはまったく同感ですね。実際、学生にもその辺から説き起こすことになるんですけど、同時にまた、翻訳の言葉は不自然に決まっているという彼らの偏見をまず壊してやる必要もある。
僕がそこで引っぱり出すのが例の堀口大學なんです。堀口大學はもちろん詩人でもあって、自分では1年364日翻訳して、1日詩をつくると言っている。うらやむべき生き方だと思いますが、彼自身の書いた詩と翻訳した詩というのはほとんど違いが見分けられない言葉の質感を持っているんですね。だから、僕は学生たちに向かってそのいくつかを抜粋して持っていって、「これは翻訳か翻訳でないか、手を挙げてみて」と試してみる。
コクトーの「私の耳は貝のから/海の響きをなつかしむ」という、あの2行を最後に置いておくんですよ。有名だからこれはばれるかなと思って。でも、『月下の一群』はもはや有名ではないですからだれも知らない。まあ教室の7、8割は、これは翻訳じゃないと確信をもって手を挙げてくれますね(笑)。
じつはこの大學訳コクトーっていうのを、僕は中学生のころに読んでコクトーが大好きになって、大学に入ってすぐそのコクトーの原文を調べたんです。「私の耳は貝のから/海の響きをなつかしむ」。特に「海の響きをなつかしむ」というのはロマンチックでいい感じなわけですよね。これは前半はほぼ逐語訳なわけ。Mon oreille est coquillageです。後半がqui aime le bruit de la merというんです。僕などが訳したら「海の響きが好きなのよ」となってしまう。動詞はaimerですから、単に「好きだ」と言っているわけですね。大學訳の「なつかしむ」というほうがはるかにいい。海との間に距離が想定されているんですね。時間的な距離もあるし、空間的な距離もある。そこで非常にエモーショナルなものが満ちてくる感じがするわけです。
だから僕は調べてみてコクトーの元版にいささか失望してしまった。あまりに平板というかね。堀口大學はそこで一種のマジックを使っていたんですね。しかももちろん、五・五・七調をうまく用いて。翻訳がいかにやわらかな、なめらかな日本語を生み出せるかという好例だと思います。むしろ散文の場合はどうしても格闘の跡があらわに残りやすいのかもしれない。

「原書を読んでガッカリ」という経験、外国文学好きなら一度は覚えがあるのでは?
私の場合、それが一番多いのは聖書。もちろん確信犯的なバージョンが多々あることをふまえつつも、日本語訳で読んで感銘を受けた聖句が「全然意味違うじゃん、私が感動したのは神の言葉ではなかったのか...」と。
大昔に「マディソン郡の橋」が流行ったとき、「もう大感激して早速原書を求めたら、邦訳版のほうがずっと良かった。日本語の豊かさに魅せられた」というある外交官の談話を思い出した。

マディソン郡、私は当時ペーパーバックで読んだ。せっかく思い出したので電書版を買って翻訳の師を増やそう。

ちなみに映画も佳作でしたね。
メリル・ストリープがしっかりイタリア系っぽさを醸し出していて、「休暇」の後家族を迎えるシーン、添い遂げた夫の死のシーンがしみた。
彼女自身は、イーストウッドとのラブシーンが辛かったそうだ(ダーティハリーと同衾してると思うと笑えて笑えてwww)。

マディソン郡の橋(字幕版)

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  • クリント・イーストウッド
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野崎 とにかく明治以降のことだけを考えても、驚くべき混乱と創造のプロセスがあるわけですよね。柳父章さんの『翻訳語成立事情』という名著がありますが、目次が「一 社会」「二 個人」「三 近代」「四 美」「五 恋愛」「六 存在」「七 自然」というふうになっていて、これが全部翻訳語として作られたものなんですね。はっきり起源がたどれる、当時の造語なわけです。(中略)


多和田葉子さんという面白い作家がいて、ドイツではドイツ語で、日本では日本語で小説を書いている、言葉の国境を軽々と越えている人なんです。その彼女がまさに言葉の境や翻訳体験をめぐって、最近『エクソフォニー』という本を出した。これは「母語の外に出る」という意味で彼女が造語した言葉なんですね。
彼女は柳父さんの本を知らなかった。あるとき目次を見て愕然としたと。こういう重大な言葉がみんな外国からやってきたもので、要するにみんな移民だったんだと彼女は言うわけ。日本は移民に対してこれだけ門扉を鎖した国だけれども、実はわれわれが使っている言葉の中には移民がたくさん混じっていると。実に刺激的な指摘だし、またそこに新しい言葉の可能性が宿り得るということを考えていきたいなという気がします。


斎藤 「愛」っていう言葉も、おそらく訳語ではなかったですか。昔は聖書なんかでも「愛」なんていう言い方をしないで、昔の訳では「ご大切にする」とかしていたわけですよね。だけど、人が人を愛するという感情が日本人になかったはずはないわけで、それをどういう日本語で表現していたかを遡って調べるのは非常に面白い。(中略)
日本人は違う言葉で同じようなものを捉えてきたんだと思う。言葉の通時的・共時的なダイナミズムみたいなものは翻訳を通してたくさん見えてくる。


野崎 (中略)『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の場合、原作の文章だってある意味で賞味期限が来ていると思うんです。
スティーヴン・スナイダーさんという日本文学の翻訳家がいるんだけど、彼に原文はどうなんですかと聞いたら、「いまのアメリカ人にとっては、あれは古い文体ですよ」とおっしゃっていた。それは当然だと思う。ティーンエイジャーの話し方ほどあっというまに古びるものはないのだから。逆に絶えずフレッシュであることが可能だというのは翻訳の強味だとも考えられる。ゲーテの詩には、翻訳されたことで枯れかかっていた自分の詩がみずみずしく蘇ったという喜びをうたった詩があります(ゲーテ「ある喩え」)。
日本には『ハムレット』の訳が40もある、おれたちは1種類しか読めないんだとイギリス人がうらやんだという話もあるけれど、たしかにそれは翻訳文化の豊かさでしょう。だから、ベンヤミンではないけれど、翻訳は原作ののちの人生、原作の未来なわけですよね。その新しい生命をつくり出せるということは幸せだと思うし、またそういうかたちで原作が生き延びた状態に出会える翻訳の読者というのもやっぱり幸せじゃないですか。


斎藤 うん。しかも、翻訳によってどこがどう違うのかというのを見ることで、原作がさらによくわかるわけですよね。だから、それぞれの研究論文として見てもいいくらいのもので、いろんな時代にいろんな翻訳があるのを通して見ることで、さらに原作が深く読めるという意味合いもある。
斎藤兆史・野崎歓著『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』より

その1では語学教育について引用しました。
「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」を読んだ 文理分けのバカらしさとリベラルアーツの底力