STAP細胞の報道や、都知事選候補者の暴言について読んでいると、草葉の陰で千葉敦子氏が「何も変わっとらん!」と嘆いているのが聞こえるような気がする。
ジャーナリスト千葉氏の著書を私はすべて読んでいるが、『寄りかかっては生きられない』(1983年刊)は、残念なことに私が読んだ10年前でもまだ刺激的だった。なんせ、2000年代の新卒の就職活動の面接で、「この仕事は女性は無理です」とはっきり言われたこともあるくらいなので…
そして恐らく今も「差別はおかしい」と言っているだけなのに、なぜか話が通じない人が大勢いるようなのである。
この本は、鈴木健二氏、草柳大蔵氏の男尊女卑禁書に対する批評と、日本の男女のあり方に対する提案、エールで構成されている。
書評部分は、渡辺淳一大先生のエッセイにつっこみを入れるのと同様なんかもう脱力だし、かれらの言うことに同意しない人も増えていると思われる。
(たとえば、鈴木氏の著書「気くばりのすすめ」205ページには「神は女性に対して多くの心情とか情緒をお与えになったが、その分だけ考える性格を少なめ目にしかお与えにならないかったとみえて、女性は考えることがあまり得意ではない」と書いてあるのだという。合掌)
が、後半には、「今も同じっす!!」と言いたいことがいろいろとレポートされている。
私が学窓を出た1960年代の半ばに比べれば、いまは随分多くの門戸が女性に開かれています。女にまともな仕事を与え、管理職にまで昇進させる組織も少しずつですがふえています。
しかし、全体の歩みは私が想像していたより、ずっと遅いですねえ。先進国はもちろんのこと、発展途上国を見ても、日本より女性の社会進出が遅れている国は数えるほどしかありません。
アメリカでは、どこに行っても女のボスがいますが、こういう状況がタナボタ式に生まれたわけではないのですよ。ここ10数年というものアメリカの女たちは1人1人が、それぞれの場所で頭をひねり、行動を起こし、闘って、勝ち取ってきたのです。
日本の女性は、日本の男性ほどではないにしても、こういう持続的な粘り強い闘いが苦手のようですね。日本の女性の地位を高めようとしているのは、国際的な圧力ばかりで、国内の力はあまりにも弱過ぎると思います。
知ってる!外圧頼みってやつ!
1981年1月8日付日経新聞 Bank of Americaの副頭取、成田貴美さんの談話として。
「能力ある女性をムダにしていると国際競争にいずれ負けます」
「日本人は頭がよく、女性も素晴らしい人が多いのに、この優秀な人的資源を有効に使わない手はない」
三好(京三)さんの恐怖は、多くの自信のない男どもの恐れをよく表しています。いままで人類の半分は自分より下の地位にいて、自分たちに奉仕するために生きているのだと思っていたのが、どうやら同じ権利を主張しはじめたようだ。そしてまずいことに、女の中にもできるヤツもいる。21世紀は男にとって辛い時代になりそうだ…。こんなふうに考えておいでなのでしょう。
1983年8月12日付朝日新聞の「ひと」欄に大城弥生さんという大和証券に勤める女性が米国コロラド大学に留学されることになったと紹介されています。(略)
それで、この人のインタヴィューなのですが、「アメリカでは、男性と対等に仕事をするOLの生活ぶりも学びたい」はいいとしても、「お茶くみひとつでもおいしく、タイミングよく入れる工夫を忘れないOLでありたい」はいただけませんねえ。
どうしてこんなに男に媚びるのでしょう。インタヴィューしたのは男性記者ですが、こういう「男に媚びることば」を貴重な紙面を費して載せるのも感心しません。男の記者は仕事をする女をインタヴィューすると必ずといっていいほど、こういう男に媚びることばを引き出そうとしますから、気をつけて下さい。大宅映子さんも1983年6月29日付の日本経済新聞に、そのような男に媚びることばを語っています。この記事によれば、「ところで、この手の女性、マスコミに売れはじめると、しゃしゃり出るのが、そのさがだが、彼女は、まず「母親である」ことを自分に言い聞かせている。「6時には、家に戻って、夕飯をつくる。それができない仕事は、お断り」と。(中略)どうやら、大宅壮一は、娘に「女は"女"である」ことをしつけたようだ」
となっています。
この記者は典型的なメイル・ショーヴィニスト(男性優位主義者)であることがぷんぷんと匂うような記事ですね。「この手の女性」「しゃしゃり出るのが、そのさが」などという表現、男で大宅さんのように仕事をしている人には絶対使わないでしょう。
それでも、この記者を喜ばせるような「6時帰宅」などというようなことをおっしゃったのは、大宅さんの失点です。
(略)
こうして比較してみると、日本の女性が、アメリカや韓国やフランスの女性よりもいかに遅れているかが分かりますね。同時に、どこの国でも男の意識は非常に古いものなのだということに気づかされます。男に媚びる態度は、一度身についたらなかなか振り落とせないもののようです。たとえば中学生や高校生のうちから男子の運動選手のために洗濯したりお弁当つくりしたりする女の子、いますね。あれを始めたらもう重症でなかなか治りません。
エリートの女性の中にも媚びる人がたくさんいるのですから、日本女性の真の解放は、まだまだ時間がかかりそうです。
日本では現在、産婦にだけ産休が認められていますが産休が明けて職場に戻ると、冷い雰囲気に包まれることも少くないようです。1982年12月14日付の日本経済新聞によれば、同僚の男性は「仕事がふえて困った」「やめればいいのに」といい、夫までが「だからやめろといったじゃないか」というそうです。
現在は産休は両親に認められるようになったが、状況は30年前の上に同じ...な話は誰でも聞いたことがあるはずだ。
とはいえ、千葉氏はもちろん「日本人は〜」と一般化するのは間違いであることを知っている。
「日本にもすてきな男性が何人もいます。人類の半分を見下したりはせず、見下した態度をみると気持ちが悪くなる、という男性もいます」として、吉田秀和氏、鶴見俊輔氏、小松左京氏らをフェアであると賞賛している。
おまけ
女の子の躾けのうちでは、「方向感覚を養う」なんていうのが、意外に重要なのではないかと思います。男の中にも方向音痴はいますが、圧倒的に女に多い。いつも誰かに連れて行ってもらっているから地理を覚えないのでしょうか。責任のある仕事を持っている女性には方向音痴は少いのです。
今の私の実感では、これこそ個人差だと思う。「女に多い」とは感じない。最近も男性に道を聞いたとき、電話なのにしきりと「もっとあっち」と言われアホかと思った。方向音痴はダサい。平気で「地図よめない」と言う人多すぎ。
ちょっと当たりつつある予言。「単一の価値観」でもこぢんまりと暮らしやすい、これ以上経済発展を目指さない国を目指すか(私はそれもいいと思う)、多様性を広げることに力点をおくか、どちらに舵を取るかいい加減決めるべき時かなと思う。
短期的にみれば、こういう、あまりものを考えないで突っ走る男たちの群れが、日本経済の成功をもたらしたといえるでしょうけれど、長い目でみれば、日本社会のように多様性に乏しい社会は大して進歩もしないし、次の世代に残すような豊かな文化もつくり得ないのではないかと心配です。単一の価値観が支配する社会が長期にわたって繁栄したことは、歴史的にも見当たりませんものね。
彼女の理想。
日本の男性は、いますぐ帰宅時間を早め、週末はバッチリ子どもと過ごしたらよいと思います。
夫の残業手当てが減る分くらいは、妻が十分に稼げるでしょう。
性別による分業でなく、それぞれの人の得手不得手でさまざまな組み合わせが出てきていいと思います。
21世紀の女性は、表面的な礼儀よりも中身のあるコミュニケイションを重視し、変にへり下ることなく、自分のセクシュアリティーに誇りを持ち、自己主張は強く、自分を大切にし、不満ははっきりと表明し、スケイルの大きな目標を持っているだろうと私は思います。こういう女を「こわがる」男は大幅に減って、一段下ではなく同じレヴェルにいる女と手をとり合うことを喜びとする男がふえるでしょう。
最後に、差別の存在を意識すること、それをなくそうと努力することの意義は、ここに集約されると思う。
(女性の解放が)なぜそれほどに重要かといいますと、女の解放こそは、男の解放、子どもの解放につながり、それこそ真の人間解放を目指すものだからなのです。
引用はすべて千葉敦子『寄りかかっては生きられない』
私にとっての千葉敦子入門はこの1冊。
合理的な暮らしについてツラツラ書かれた本で、もうIT関連など古くて役には立たないが、最も好きな本。私をアメリカに引っ張ってくれた。
上に同じ理由で好きな1冊。
「英語だけは」「机」の項には刺激を受けたし、ちょっとしたパーティミールの作り方など何度読んでも面白い。
これらも私をアメリカに引っ張った作品。
彼女が手紙のやりとりをし、マンハッタンを案内したという米沢富美子博士の物理学レクチャーにまで足を運んでしまった。千葉氏と邂逅のあった方なのだと思うと感慨深かった。
千葉氏の記事のファンの方に。
彼女の妹さんのサイトで、「千葉敦子の思い出」を読むことができる。
死去後26年たった2013年に千葉さんのことを綴ったすばらしいエッセイがネット上を漂っているのを知ったときはどれほど感激したか。しかも、妹さんの文章は洞察に富んでいてうまい。姉上の思い出だけでなく、クリスチャンとしてのエッセイ「神様の話」も何度も読み返してしまうほど良い。
さらに。。。感銘を受けた記事に簡単にコメントを入れたら、お返事が投稿されていた。
さあ、ご一緒に。「いんたーねっと、すごい」