英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

映画 Drive My Car を見た。濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』

【2022 追記】私は下記のとおり感動して何度も見てしまったのだが、イ・ユナ役の俳優さんが手話ネイティブではないと知って完全にさめた。少なくとも米国の観客は彼女を耳は聞こえるが普段から手話を使用している俳優さんなのだと思って見ていました。収奪だし、フェアではないことに課金してしまった気分です。

今年、米国上映の国際映画としては一番勢いのある(批評家に好まれている)邦画をLAのムービーゴーワーたちと一緒に見たいと思い、ワクチン証明書を持ってシティの映画館へ行った。

とにかく原作小説にはないエレメントが良かった。
国際演劇祭が舞台だなんて聞いてなかった。最高だ。

というか冒頭のモノローグ、女性描写は村上臭が濃厚で、3時間無理かも...と不安に。
幸い、長いプロローグを経て広島に移り、ドライバーと言語色に富んだ楽しい演劇仲間たちが出てきてからはもう少し見やすいトーンになった。

物語を転がす小道具で、ごく小さいとはいえ日本国外の人が話をすんなり飲み込む上で妨げになるところがあるとすれば、シャッター音が鳴るスマホと強制的夫婦同姓(しかも女性が変えるの前提)でしょうか。
偶然、どちらもジェンダーハラスメントに(も)かかわりのある細部だ。
強制的夫婦同姓のくだりは、英語話者にとってのほうが味わい深かったのではないか。
福音という言葉が業界用語でしかない日本では、「家福音」を家福が「宗教的すぎる」とコメントしても何も面白くないし、人によっては意味が分からないだろう。
"House of Gospel"と聞いて初めてクリックするのだし、後で「そうか、あれは、あの一瞬は確かに福音の家だったのかもな...」と別レイヤーの意味を感じなくもない。

それから、舞台については本来韓国で撮影予定だったのを(あれ、サーブは輸送したのだろうか。ロジが厳しいときにすごいな)パンデミックでやむを得ず国内に変更したという事情のようだが、少なくとも米国のレビュワーの多くがヒロシマの選択に特別な意味を重ねて見ているようだ。

日本語話者の私は3時間一度も笑わなかったが、要所要所の空気が緩むところで吹き出す人がいた。英語字幕も優れていたのでしょう。
いや、でも「生きていかなければ」とかシリアスなところで笑ってるおばちゃんいたなぁ。内輪受けか?
「私はかもめ」で笑う人がいたように?

それぞれの言葉を語る舞台役者役の皆さん、みんな素敵だね。
面白いのはソーニャが口を開いたとき(つまり、手と表情を動かし始めたとき)観客が一番集中して耳を傾けるんだよ。何も鼓膜を震わせないのを知っているのに、劇場がぐぐっと「聞き逃すかっ」と吸い込まれるのが分かるのよ。
これは『エターナルズ』とか『コーダ』では起きなかったこと。

煙が車内に充満しないようにタバコをルーフトップに掲げるシーンをcommunionと表現したレビューを見て、なるほど、あの3人がたびたび点火に苦労しながら、時には火を分け合って喫煙しまくっているのは、身を削った弔いだったのかと膝を打った。雪の中でお焚き上げをした2人にもうタバコは必要なくなったんだよね。たぶん。

高槻の告白をキューに家福が定位置を後部座席から助手席に変える切り替えも良かった。
ま、ツードアは後部座席に座るの煩わしいものね...。

今日、本当は『ウエスト・サイド・ストーリー』を見るつもりだった。
が、アンセル・エルゴートの未成年に対する性暴力の告発を改めて読んでやはり課金してはならぬと思った。
彼を見るのがきついというのもあるが、エルゴートのPR露出をだましだまし絞りながら公開を推し進めたプロダクションの不誠実、ハリウッドのダブスタがむかつく。そりゃ彼以外のスターやスタッフは気の毒だけど、「彼女が傷ついたのは大したことではない」というシグナルを送ってはいけない。

上映中、彼のクレジットにブーイングが起きた、イベントで彼が登壇しても拍手ひとつ起きなかった等々白けるレポートが聞こえてくる一方で、華やかに生まれ変わったダイナミックなシーンも多々あるらしいので残念だ。

【3/2022追記】
HBO Maxで配信が始まったので毎日ちょこちょこいろんなシーンを見返している。
ユナさんの「チェーホフのテキストが私の中に入ってきて体を動かしてくれる」ってキリスト者の理想の姿でもある。そして家福の「(チェーホフのテキストは)自分自身が引きずり出される」「テキストに自分を差し出すことができればいい」というのも。「神の言葉(Jesus)が私をアクティベートしてくれること。言語習得にも演劇が有効な理由でもある。

The Atlantic掲載のレビューの目の付け所とデリバリーがとても気に入って特に冒頭2段落はほとんど覚えて反芻するほどなのだが、緑内障のためにドライバーをあてがわれたと書かれているのは脚本と違う。
An Electrifying Adaptation of a Murakami Short Story
原作に引っ張られたのか、事務局のドライバー予算の説明を聞き流したか。
まあ、確かにあの改変は説得力がなかったのでレビュワーが思い込むのも理解できる。原作を読んでいればなおさら。「家福には本人に気づかない死角があった」というメタファーが重要すぎるし、なぜ診断ついてから2年たっても長距離運転をしているんだろう、実際に劇中事故ってるのに本人は怖くないのだろうか、とか疑問が湧いてしまう。

【3/2022追記 その2】最後のシーンでは傷が消えてるのね。

【3/27/2022追記】
濱口監督がDeadlineなどのインタビューで明かした脚本に手話を取り入れた経緯に対し、ろう者から手話の消費だという批判の声が上がっているのを知る。私は彼女を実際の韓国手話話者なのだと思い込み、上に書いたとおり、普通に感動してしまったし、周囲の観客もそうだった。濱口監督の判断を残念に思う。今晩、CODAの制作陣と同じ舞台に立つのは恥ずかしいことだ。

原作。というか素材集。

トレーラー。