英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

映画 Diana Kennedy: Nothing Fancy (2019) を家で見た。『ダイアナ・ケネディ:ナッシングファンシー』

コロナがすっかり過去の話になった。
もちろん実際は過去になってないのだが、この1週間で世間のサイキが一変した。
路上に出ていくのに「集まるのは危ない」なんてまったく意識にのぼらなかった。

「料理の文化人類学者」の称号にふさわしい、ダイアナ・ケネディのメキシコ旅のメモワール。
ミチョアカンの深い緑、チリ、ライム、コリアンダーのクリスプな色彩がまぶしい。

(私も大方の例にもれずあまりコリアンダーが得意ではないのだが、ダイアナは「コリアンダー入れないでとかいう人がいるけど、そんな奴は招かんでええ」と喝破していた笑。昔、キムチや寿司の魅力が全然分からなかったのに今は大好きなので、大人になるほどに美味しいと思えるようになるだろうと期待している)

The Art of Mexican Cookingの一瞬一瞬が快楽で、彼女と一緒に思わず身を乗り出して鍋の中を覗き込んでしまう。
(このArtを一語で表す日本語はない。「芸術」とも「技術」とも言い切れない「リベラルアーツ」のアート)

料理3年生からレストランを経営する熟練のシェフまでが集まったブートキャンプ、お料理教室を撮ったシーンが面白かった。
ひたすら食べ物におおいかぶさるようにしてしゃべりまくるダイアナ。
市場でも汗をかきまくっているであろう腕でタコ生地を叩きのばしている場面が出てくる。

ウイルスは唾液に濃厚に含まれているという。
以前から、作る人がしゃべりまくってる厨房ってまあ衛生的ではないよね、でも事故を見込んで成り立っている自動車社会と同じで、「そのくらいは」で世間の契約ができてるよのね、と思っていた。
でも、いったんその人たちがマスクをつけ始めると、つけないで食べ物を扱うのはあり得ない気がしてくる。

でも、気持ち悪いことを言うようだが、手作りの一皿は人の体液込み、その場の塵埃込みで美味しいのかもしれない、とこの映画を見て考えた。
おにぎりや寿司が旨いのはじかに手で握るから。愛情~とかじゃなく、物理的に「なにか」が足されているから。
カリフォルニアでは食べ物を直接触ってはいけない規則なので、寿司も手袋をはめて握られる。すると、不思議と寿司ロボットと変わらない。
これに加えて、マスクが必須になったら?

最近、日本の人でも誰かが握ったもの、さらには誰かの手作りが無理、という人がいる。気持ちは分かるけれど気の毒だと思う。
料理ではなく、工業製品を食べるしかなくなってしまうではないか。

死期は自分で選ぶものである(うちの牧師も同じことを言っていた)、見ること、料理すること、食べることができなくなったら私は消えるだろう、と言っていたダイアナ。
彼女の時代は終わってしまうのだろうか。

彼女が自分に与えられたものを活かそうと努めてきたことを話しながら引用したタゴールの詩をメモしておく。

"Let me light my lamp," says the star, "And never debate if it will help to remove the darkness"

そして、「メキシコの養女」ダイアナが英語らしくて好きだと言っていた言葉は、comeuppance.

Very Mexican in her soul.

再び、地域の映画館に収益が入るプラットフォームで鑑賞。
https://dianakennedy.vhx.tv/products

タイトルになった彼女の代表的クックブック。

トレーラー。

3/30/2021追記、
最近読んだ記述から。ちなみにこの本は著者ふたりが女性蔑視を随所に開陳しているので、おすすめしない。

内田 (中略)おにぎりだって、手で握ったものと、機械で握ったものって違うでしょう。
春日 手袋なんかもしちゃいけないですよね。
内田 手の垢がついてる。あの微妙な塩気がいいわけでしょ。そういうものを排除しすぎているから、人間の免疫力も落ちてるんじゃないですか。
春日 現代社会は、雑菌とか寄生虫とか、そういうものをどんどん排除してきましたからね。

内田樹 春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る ― 生きづらさの正体』より