あるニューヨークルーキーの1日を綴った不思議な佳品。
ミネラルウォーターの封を切って冷蔵庫に入れるとか、詰まったコピー用紙を取り除くとか、彼女の手元は自分の手元かと思うくらい既視感でいっぱいなのに、人形の家をのぞき込んでいるかのような現実離れした感触がある。
上着を机の一番下の大きな引き出しに丸め込むとか、リアル・オブ・リアルだよ。
入れ替わり激しい & 要職ではないポジションの引き出しはカラなんだよね。
他のエグゼクティブは、ちゃんとコートかけを使ってるわけ。
舞台っぽくもあるのは、ボスが一切顔を見せないからだろうか。
実はポスターを見てヨーロッパ映画だと思い込んでいたのだが、その広告表現が適切だったことが分かった。
スケジュールをプリントアウトし、小切手を手書きしているのはなぜだ。
スマホがなければ、いつの時代の話なのか考え込むとこだった。
でも、残念ながら舞台は今このときなのだ。
彼女の場合、日の出前出勤、日没後退勤なので、8時間を超えていると思われるけど、それにしても1日の労働時間て長いね。
ひたすら振り回されている彼女を見ているだけでくたびれた。
オフィスの外が再び暗くなると、すごくイヤな終り方をするのではないかという不安がわいてきた。
明朝もまた早いのだろうか。
入場時、もぎりのお姉さんに「はい、パラサイトね...あ、ちゃうわ...」と言われるなど。
今回の作品賞は、ちゃんと街の一般ムービーゴーアーの気分が反映された感があって嬉しかった。
少なくとも、アンジェリーノは1917じゃないぜ!と思っていた。
既にロングラン、ますますヒットしそうです。
2/17/2020追記、
『騎士団長殺し』(単行本の装丁がへぼい...ドロップシャドウ...)を読み終わったので、『みみずくは黄昏に飛びたつ―川上未映子 訊く/村上春樹 語る』を再読している。
以下の記述は優れた芸術作品の共通要件だと思うが、この映画を想起させた。
本当のリアリティっていうのは、リアリティを超えたものなんです。事実をリアルに書いただけでは、本当のリアリティにはならない。もう一段差し込みのあるリアリティにしなくちゃいけない。それがフィクションです。
(中略)
フィクショナルなリアリティじゃないです。あえて言うなら、より生き生きとしたパラフレーズされたリアリティというのかな。リアリティの肝を抜き出して、新しい身体に移し替える。生きたままの新鮮な肝を抜き出すことが大事なんです。
(中略)
僕はただその人のボイスを、より他者と共鳴しやすいボイスに変えているだけです。そうすることによって、その人の伝えたいリアリティは、よりリアルになります。そういうのはいわば、小説家が日常的にやっている作業なんです。
―村上春樹
トレーラー。