英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。Python、Ruby、JavaScript、神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

聖書の献金と布施、法施、無畏施(シリーズ献金 その16)

お坊さん(釈徹宗氏)と哲学者(内田樹氏)がお布施について話しているものを読んで↓、まず、「おれのものはお前のもの、でも最低10分の1は返しなさい」とはっきりガイドラインを示して「分配のトレーニング」、「持っているものを手放すトレーニング」をしてくれている聖書を本当にありがたいと思った。

文中の「布施」はミニストリーと言い換えられると思う。
「法施」は教会で言うところの伝道ですね。
「無畏施」は地味だけど一番大事かもしれない。愛とは目に見えるもの。

時どき「法施」、「無畏施」さえしていればいいんだ、という人がいて気になります。
ダメです。「財施」もしないと。
もちろん、教会ではカネない人は時間や能力をささげましょう、って教えてますし、すべての行為が愛であり、ミニストリーであるべきです。
でも、「財施」しないのはもったいないよー。

最善の手段としての利他を聖書の教えから自然と学んでいたことは以前も書きました

過剰エネルギーの分配としての「布施」(太字はブログ主)


釈:(中略)思想家であり作家でもあるジョルジュ・バタイユが『呪われた部分』という著作で「人間の生命力は過剰だ。だから分配するのだ」と、人間の生命力を基にして経済論を展開しています。さらにバタイユは、「人間がもっている過剰なエネルギーは、分配したり贈与したりしない限り、呪いとなる」というようなことを語っています。
よく人類学で語られる話ですが、食物が豊かで暮らしやすい森で暮らしているサルと、食物も少なく過酷な環境におかれたサルとに分かれ、後者のサルは必要にせまられて食物の分配や役割分担をするようになる、それが人間になったという説があります。実際、摂食の姿を公開したり、摂食を共にする(共食行為:宗教と密接な関係にある)のは人間だけだそうです。人間とDNAが95%も同じである類人猿だって、そんなことはしないと聞きました。つまり、分配や贈与といった利他行為こそが、人間が人間たる所以であるということになります。
仏教の布施というのは、基本的にはこの分配のトレーニングなんですよ


内田: なるほど。


釈: 「お布施」は、何も読経するお坊さんへの報酬ではありません。自分が持っているものをシェアする、あるいは利他の精神を発揮する、それが布施というトレーニングです。これは日常生活の中で実践されねばなりません。常日頃、握っている手を放す、持ち物や気持ちを分配する、そのような実践を通して、私たちは「執らわれる」という枠組みを解体することができます。執らわれがなければ、苦悩多き人生を生き抜くことができます。
ついでに言いますと、布施というのは大きく分けて3つあります。「財施」、「法施」、「無畏施」です。
「財施」とは、持ちものをシェアする修行です。持っているものを手放すトレーニングを日常していないと、われわれの過剰なエネルギーは必ず呪いへ向かってしまいます。
「法施」というのは、仏教の話をしたり、どう生きるべきかを語り合ったり、生や死や善や悪について語り合ったりすることです。今日、この講座で聞いたことを家に帰ってから、「釈さんっていう人がなかなかいいことを言っていたぞ」と家族に話すと功徳は倍増します(笑)。それはウソですが、相手を慈しむ気持ちで生きる方向性について語るならば、これは立派な分配・贈与です。布施行です。
「無畏施」というのは、他者に畏れを与えないという布施行為です。たとえば、柔らかな表情や物腰、相手を思いやる言葉、暴力的ではない態度、それら「畏れを与えない」ということを意識的に行う。それを、自分の修行だと自覚して実践すれば、布施になります。中でも特に大切なのは、「愛語」です。すなわち、「よく調えられた言葉を使う」ということです。これは他者の畏れを取り除く、つまり、「予祝」というようなことになるのではないかと思います。


釈徹宗、内田樹、名越康文著『現代人の祈り: 呪いと祝い』から

「共食行為」が「宗教と密接な関係にある」のは、私の知るキリスト教ではそのとおりで、会食はすなわち礼拝なんですよね。最後の晩餐が象徴的。
聖書を読めば分かりますが、ジーザスは人間とご飯を食べるのが大好き。
今も毎日、「一緒にメシ食おうや」と言ってこられます。

最後の「予祝」というコンセプトも、聖書の霊の世界の現実にめっちゃ似ています。この対談の前に書かれているのでぜひ。