英語あそびなら天使の街

在L.A.言語オタ記。神さまのことば、天から目線の映画鑑賞日記。

映画 Ad Astra を見た。世界気候ストライキの日に。『アド・アストラ』

Ad Astraは、ラテン語で"to the stars"の意。
自治体や軍、大学などのモットーやエンティティによく採用されているフレーズです。
たとえば、Carpe diemと同じくらい、ニュアンスが共有されている感じ。

今日は全世界でWalkout for climate changeが行われました。
もちろんL.A.でも。
環境問題や原発に関していつも不思議なのは、政治家は自分の子どもたちの将来が心配じゃないのだろうかと。
カリフォルニア州と綱引きしている大統領の息子さんもまだ未成年よね。
今回、大勢のティーンが訴えたように、彼の30年後を憂うよりも経済を優先するのはなぜなんだ。

ただ、多少問題を食い止めようと、人類はいずれ滅びるんだよな。
それでも人間は命をつなごうと命をかけるんだな...とよく思うこの頃。

この映画も、絶望の地球が舞台です。

ときは近未来。
火星も海王星もめちゃ近いです。
シャトルの操作もアレクサ並みに簡単そうです。
月ではSUBWAYがチェーン展開しています。
人間は宇宙に進出してもなお、水争いをしています。

でも、ブラピの心の旅と希望を描くのにこれほど大掛かりな設定は必要なかった気がした...。

地球にたどり着いて、人間に手を差し伸べられたときの彼の微笑には、自分もつい同化してしまったけれど。

お連れ合い役、リブ・タイラーに似てるけど、こんなチョイ役ナイよなぁ、と思って確かめたら彼女だった。
トミー・リー・ジョーンズが宇宙に残されたお父さん役なのは、日本人としてはちょっと笑える。

やっぱり各所、同じくフィクションの『ゼロ・グラビティ』と比べてしまうがゆえに、余計宇宙がチョロく見えます。

トレーラー。

聖書の献金と布施、法施、無畏施(シリーズ献金 その16)

お坊さん(釈徹宗氏)と哲学者(内田樹氏)がお布施について話している対談を読んで↓、まず、「おれのものはお前のもの、でも最低10分の1は返しなさい」とはっきりガイドラインを示して「分配のトレーニング」、「持っているものを手放すトレーニング」をしてくれている聖書を本当にありがたいと思った。

文中の「布施」はミニストリーと言い換えられると思う。
「法施」は教会で言うところの伝道ですね。
「無畏施」は地味だけど一番大事かもしれない。愛とは目に見えるもの。

時どき「法施」、「無畏施」さえしていればいいんだ、という人がいて気になります。
ダメです。「財施」もしないと。
もちろん、教会ではカネない人は時間や能力をささげましょう、って教えてますし、すべての行為が愛であり、ミニストリーであるべきです。
でも、「財施」しないのはもったいないよー。

最善の手段としての利他を聖書の教えから自然と学んでいたことは以前も書きました

過剰エネルギーの分配としての「布施」(太字はブログ主)


釈:(中略)思想家であり作家でもあるジョルジュ・バタイユが『呪われた部分』という著作で「人間の生命力は過剰だ。だから分配するのだ」と、人間の生命力を基にして経済論を展開しています。さらにバタイユは、「人間がもっている過剰なエネルギーは、分配したり贈与したりしない限り、呪いとなる」というようなことを語っています。
よく人類学で語られる話ですが、食物が豊かで暮らしやすい森で暮らしているサルと、食物も少なく過酷な環境におかれたサルとに分かれ、後者のサルは必要にせまられて食物の分配や役割分担をするようになる、それが人間になったという説があります。実際、摂食の姿を公開したり、摂食を共にする(共食行為:宗教と密接な関係にある)のは人間だけだそうです。人間とDNAが95%も同じである類人猿だって、そんなことはしないと聞きました。つまり、分配や贈与といった利他行為こそが、人間が人間たる所以であるということになります。
仏教の布施というのは、基本的にはこの分配のトレーニングなんですよ


内田: なるほど。


釈: 「お布施」は、何も読経するお坊さんへの報酬ではありません。自分が持っているものをシェアする、あるいは利他の精神を発揮する、それが布施というトレーニングです。これは日常生活の中で実践されねばなりません。常日頃、握っている手を放す、持ち物や気持ちを分配する、そのような実践を通して、私たちは「執らわれる」という枠組みを解体することができます。執らわれがなければ、苦悩多き人生を生き抜くことができます。
ついでに言いますと、布施というのは大きく分けて3つあります。「財施」、「法施」、「無畏施」です。
「財施」とは、持ちものをシェアする修行です。持っているものを手放すトレーニングを日常していないと、われわれの過剰なエネルギーは必ず呪いへ向かってしまいます。
「法施」というのは、仏教の話をしたり、どう生きるべきかを語り合ったり、生や死や善や悪について語り合ったりすることです。今日、この講座で聞いたことを家に帰ってから、「釈さんっていう人がなかなかいいことを言っていたぞ」と家族に話すと功徳は倍増します(笑)。それはウソですが、相手を慈しむ気持ちで生きる方向性について語るならば、これは立派な分配・贈与です。布施行です。
「無畏施」というのは、他者に畏れを与えないという布施行為です。たとえば、柔らかな表情や物腰、相手を思いやる言葉、暴力的ではない態度、それら「畏れを与えない」ということを意識的に行う。それを、自分の修行だと自覚して実践すれば、布施になります。中でも特に大切なのは、「愛語」です。すなわち、「よく調えられた言葉を使う」ということです。これは他者の畏れを取り除く、つまり、「予祝」というようなことになるのではないかと思います。


釈徹宗、内田樹、名越康文著『現代人の祈り: 呪いと祝い』から

「共食行為」が「宗教と密接な関係にある」のは、私の知るキリスト教ではそのとおりで、会食はすなわち礼拝なんですよね。最後の晩餐が象徴的。
聖書を読めば分かりますが、ジーザスは人間とご飯を食べるのが大好き。
今も毎日、「一緒にメシ食おうや」と言ってこられます。

最後の「予祝」というコンセプトも、聖書の霊の世界の現実にめっちゃ似ています。この対談の前に書かれているのでぜひ。

1/2022追記、
この本を読み返したくなって密林を探したら、出版社が1年前に倒産してKindle版と紙の新品が消えていた。世知辛い。Kindle Unlimitedで読んだので個人的な損失はないが、紙版の中古品が廉価で手に入るうちに買っとく...。

映画 Hustlers を見た。ジェニファー・ロペス × コンスタンス・ウー『ハスラーズ』

面白かった。
『モリーズ・ゲーム』を連想した人も多いのでは。
あちらは元アスリートだが頭脳派、こちらは肉体派。めちゃくちゃ動的でかっこいい。

ハスラーズ(字幕版)

ハスラーズ(字幕版)

  • コンスタンス・ウー
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J. Loがとにかく素晴らしい。
彼女のパフォーマンスをまともに見たのは実は初めてだったが、すごく好きになった。
双子が生まれた頃のインタビューで見たままの人柄の役。
あのときは、当時の撮影作品の監督に相手役の俳優とベタベタし過ぎ、と注意され、こちとらラティーノなんだよ、affectionateなんだよ、とべらんめえ調、ウソ、スペイン語アクセントを出してかっ飛ばしていた。
海のように懐が深く、愛にあふれている。

随所に散りばめられているショパンのエチュードが機械演奏っぽくてちょっと調べた。
ちゃんと2人の人間が弾いているようです。

ところで、監督脚本のローリーン・スカファリア(『マダム・メドラー』)は、『エイス・グレード』のボー・バーナム監督のパートナーです。
すっごくお似合い!素敵な職人カップル!2人がどんな人なのか全然知らないけど断言!

トレーラー。

SATCのサマンサ対のこり3人の図を思い出させる映像。

J. Loは撮影現場でもアネゴだったようですね。

映画 Edie を見た。シーラ・ハンコック is 『イーディ、83歳 はじめての山登り』

父親の思い出の地、ハイランド地方スイルベン(Suilven)に挑む80代。
すべてが半端な駄作である。
せめてもう少し音楽を抑え目にすればよかったのに。

シーラ・ハンコックの真正の美しさには圧倒された。
表皮がシワシワなだけで、中身は青年だよね。とにかく姿勢がいいんだよねえ。
同じ年ごろで他愛なくボケている祖母にちょっと腹立たしい気持ちが湧いた(敬愛するおばあちゃん、ごめん)。

それから、たっぷりした雨にLAの砂漠気候に乾いた脳が癒された。
最近、『日々是好日』を読んで、水音に飢える思いがあったのでなおさら。
まさに干天の慈雨。

大自然との付き合い方を知ってる人かっこいいなー、と思いながら相棒役のKevin Guthrie を見ていた。
そこから、ボーイスカウトを連想し、あそこもカトリックと同じで小児性的虐待の温床なんだよな、やっぱマッチョ組織ダメ怒、とか考えていた。

話それたついでに書いておくと、今日北部の某会合に出たら、JPLのエンジニア2人と同席だった。
火星ミッションの話をし始めて、異世界過ぎた。ちなみにどちらも女性でした。

素朴な撮影現場。『わたしに会うまでの1600キロ』の荷物背負いシーンを思い出す。
この作品の登場人物たちは荷物ほっぽり出したりするし、ちょっと登山を軽く見過ぎよね。

トレーラー。

シーラ・ハンコックがホストを務めている素敵なドキュメンタリーを見つけた。
ヒースクリフが理想の男...。
ブロンテ姉妹の「薄い本」が本気すぎるから見て。

映画 Fiddler: A Miracle of Miracles を見た。『フィドラー:ミラクル・オブ・ミラクルズ』

昨年はイディッシュ語バージョンが上演されて話題になったばかりの『屋根の上のバイオリン弾き』の製作の秘密に迫るドキュメンタリー。
初演から50年以上たってもなお(むしろ今だからこそ)住む場所もエスニシティも言語も選ばずあらゆる人をひきつけてやまないのはなぜか。

とても面白かった。
特に『屋根の上のバイオリン弾き』を好きだったわけではないが、また見ようと思った。
土曜日の朝、West LAあたりに行くと、黒づくめの正装のユダヤ教徒が列をなして歩いているのをよく見かける。
夏場など特にご苦労だなあ、と思うが、この舞台であのかっこで泣いたり踊ったり笑ったりしている彼らは、「重そう」「暑そう」ながら、それゆえに魅力的。

私はずっと、なぜ日本人はこの舞台を好きなんだろう、と考えていた。
彼らは一縷の望みを抱いてニューヨークに向かった。
でも、日本人が家と家族を奪われ、神を見失ったら一体どこに希望を見出すのだろか。

日本の帝劇の映像やポスター、日本のファンの話もちょろちょろ出てくるのだけど、さんざん本場のを見せられたあとに市村正親が出てきたのを見て、彼はまあいいとして、衣装や装置や空気感がショボい、チマい...と思わざるを得なかった。
もちろん、この映画の肝は、各地でそれぞれに愛されるフィドラーの秘密なので、別ものとして成立しているのは素晴らしいのですが。

ハーヴェイ・ファイアスタインを見たのは『ミセス・ダウト』以来。
なじみのある役者さんじゃないのに、あの声と顔芸だけであの人だと分かる濃さ。

A fiddler in the pit のキエフでの演奏が聞けて楽しかった。

舞台装置にもシャガールのエッセンスが活かされていることは初めて知りました。

こちらはミュージカルの創作秘話。

トレーラー。